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2010.08.04

『電波女と青春男(5)』

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電波女と青春男(5)』(入間人間/電撃文庫)を読んだ。

夏で海で水着でみんなでキャッキャウフフでした。それだけしか内容がないよう(言ってしまった)。相変わらず作者らしい饒舌な語り口で延々と遊んでいる描写がされているわけですが、まあ正直面白がるのはなかなか大変だったなー。別に悪いわけではないんだけど、どうも楽しい日常と言うのは語り口が饒舌すぎて、楽しさを単純に受け入れ難い。そもそも、あまりキャラクターを描写するタイプではないので(記号化を用いないタイプなので)、こういう日常描写のみで楽しく読ませるのには向いていないような気がするんだけどなー。まあ流行ですよねー。

えーと、本当に他に書くことが思いつかない…。うーん、入間作品の多くで感じるイラっとする部分も少なかったのは良かったのか悪かったのかと言う感じで、複雑。自分のスタンスとして、入間人間は自分の趣味にはあまり合わないタイプの作品を書いているんだけど、ただ”現代性”は非常に高く、良くも悪くも今の流行を押さえている作家だと思うんですよ。作品についても、必ずしも自分の好きなタイプではないんですが、しかし、現代性を描写していると言う点ではある程度の評価をしているつもりですし、おそらく、その意味では非常に品質も高いように感じます。ただ、自分の趣味からするとやや”自意識過剰”な部分が鼻につくんですよねー…。主人公の過剰な自意識に、やや辟易。自分の問題意識とは関係ないところに延々とこだわりを持っていて、「どうでもいい」問題を執拗に描かれているように感じられてしまうのです。無論、作者(や主人公)の抱える問題意識に共感できる読者ならば、辟易するどころか感動するのだと思いますが、作者の問題意識には共感できない自分にとってはいささかイラっとさせられてしまう。まあ、つまりは価値観の問題なわけで、この点をもってして”品質”の問題にはしたくないですね。自分は、入間人間が”下手”だとか”つまらない”とか言う意見には、真っ向から否定するスタンスをとらせて頂きます。上手い下手の問題ではなく、問題意識と価値観の問題であり、これを否定することは、自分の理解出来ない存在に対する無理解であることと同義です。そういう人間にはあまりなりたくないですね(しかし得てして他人から理解されないと思っている人ほど他者に無理解であったりする…。人間って本当に度し難いですな)。

とてつもない脱線をしつつ、話を戻します。とりあえず、今回はあまり作中の価値観に対する反発はそれほど感じなかったところから判断するに、作者的にも今回はインターミッション的な回であったように感じます。本当にご褒美回だったのかも。ヒロインたちが戯れる姿を見せてくれるというわけですね。ただ、正直、自分はあまり興味が持てず…、す、すいません。あんまり入間作品のキャラクターに”萌え”とか”可愛い”とかそういう感情は抱けないんです。なんかこいつら未来に生きすぎと言うか、コミュニケートできる感じがしないんだもん。これもジェネレーションギャップなのかしら…。

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コメント

どの作品も価値観が合わないと非常に読み辛い面はありますよね。
下手という所に関しては、単純に可読性の問題もあるかと……これはファンからの意見にも散見しますが。味になってもいるので、一概に否定できるものではありませんが、自意識過剰で上等、と感じられたみーまーと違って電波~ではその語り口が少々鬱陶しくなる面はあるかもと思っています。
ともあれ文章はコントロールし辛いものですし、その味で何が書けるかが重要では、と。

>自分の問題意識とは~
は、吉兆さんの、ということでしょうか。
いえ、偶にあちこちにフラフラと意識を飛ばす描写があるので、もしかしたらそういう面について言われているのかな、とも思いました。
ただ現代性という部分に関しては、単に問題意識という面では他にも同じような題材を扱っているような作家もいると思いますが、描写の性質に関してでしょうか? 良くも悪くもライトノベルはジャンルで区分された性質を持っているので、画一化された「ラノベらしさ」を求めるとそこから外れる面はあると思いますが、現代性、となると例えば一般文芸のそれに近い描写スタイルなどを指していくのかなとも感じましたので。

投稿: 名無し | 2010.08.05 02:11

>自分の問題意識とは~
は、吉兆さんの、ということでしょうか

あーそうです。
青春男に限らず、基本的に入間作品における主人公たちの葛藤や物語のテーマとかにはあまり興味が惹かれないといいますか。ただ、それに共感する層があることは理解できますし、そこに届く作品であるという評価はしているつもりです。良くも悪くも個性が強いですね。

投稿: 吉兆 | 2010.08.05 21:44

お返事ありがとうございます。

書いた後で思ったのですが、入間文体(と言っていいか解りませんが)は、自意識過剰な語り口はみーまーの「嘘だけど」を初めとした戯言的な(現状に対する自己韜晦の為の)自意識を語るの分にはいいのですが、電波~ではみーまーと違って物語の進行上、どうしても起伏が平坦になる部分があるので、そこで余計に鬱陶しく感じてしまう面があるのかなあ、と思いました。電波~がどんな作品なのか、自分の中での位置付けが少し曖昧なままなのかもしれません。
現代性も書いた後で納得したのですが、ラノベの土壌で現代の等身大を書こうとしているかな、というのは読み取れるかなと。伊坂幸太郎、舞城王太郎をライトノベルでやってみたらという感じといいますか。
化物語シリーズなんかもですが、単に日常描写だけで読ませていくのも「流行」で、それも現代性に寄与しているのかなとは思いますが。

個人的には葛藤はともかく、電波~のエリオを通して見る主人公の目線の先にある世界には、少し共感するものがあります。

萌え部分に関しては、コレは仕方ないかな、と思うのですが(苦笑)、吉兆さんの記事で少し納得できてきた部分があります。意図的なものというよりは、これまでの作品を読む限り恐らくは作者の性質なのでしょうけど、記号的なキャラクター処理をされていないんですよね。みーまーの湯女にせよこの作品のエリオにせよ、特徴付けられていても、作品が自意識を語る事に寄って行くと、キャラクター的なキャラからどんどん離れていく部分があるというか。
電撃作品では、禁書目録が徹底して「このキャラはこう動く」という予測が立つのとは正反対かな、と思っています。読者の解釈だけで予測し辛い、というか。

投稿: 名無し | 2010.08.05 22:44

入間先生は、たぶんあまり記号的なキャラクターには興味がないんじゃないでしょうか。そんな気がするんですが、作中に妙に記号的なキャラを置こうとして、なんとなく作風に違和感を感じるというところは自分にもあります。

たぶん、作者としてはそれは撒き餌のようなもので、その奥に書きたいことがあるのではないかと。過激な表現(と言う書き方もセンスが悪くて好きじゃないですけど)で見逃されがちだけど、本当に書きたいことはもっと普遍性のあることだと思います。

まあ自分はその上で、入間先生の価値観はイマイチ自分には受け入れられないな、と思うタイプなのですが。こればかりはなんとも。

投稿: 吉兆 | 2010.08.08 00:10

恐らく、最初に記号的なキャラらしさとのずれを感じたのはそこなんだなと思っています。>違和感
ラノベらしいキャラ、と言われれば一応それなりに類例は思い浮かぶのですが、みーまーにしろ電波~にしろ、座りの悪さを感じるのは、どのキャラも主人公と不可分の『書きたいこと』を書く為に配置されていて、それが記号的な要素を剥いでいるかな、ということでした。
過剰な一人称で『自分』を語りすぎるキャラがその原因かなと最初は感じていたのですが、少なからず、『このキャラはこう活躍させよう』という意図が見えないのは大きいかな、と。
これは描いているのがあくまで日常で、キャラも比較的に日常よりの設定だからというのも大きいとは思いますが、ライトノベル的なキャラを用いて自意識を強調した(私小説ではありませんが)小説を作るとこうなるのかな、ということなのかなと。
みーまーにしろこの作品にしろ設定も構成もエンタメとして作られてはいても、問題意識の扱い方と、その対処があまり「ラノベらしくない」と感じる部分があります。展開がキャラや設定に引き摺られていない、ということなのかもしれませんが。
最近ですと吉兆さんがレビューされている空ろの箱と零のマリアの作者である御影瑛路のデビュー作にも同じような印象を持ったのですが、あちらよりももっと主人公の自意識に強くフォーカスしているかな、という印象があります。
角川文庫から出直している深見真のアフリカンゲームカートリッジなどは、逆に完全にラノベとして読んでも不都合がないかな、とか。

この作品が単に『中間ジャンル』的だからこう感じているだけなのかもしれませんが、ちょくちょく読んでみようとは思っています。
まだ理解が浅いですが、こうして自分以外の感想を参考に出来て、助かっています。
実は当初「記号的なキャラ」というのがどの範囲を指すか迷っていたのですが、こうして感想を比較させて頂く事で、最近は自分なりに理解できてきたかな、と思っています。

投稿: 名無し | 2010.08.09 19:09

キャラクター小説でありつつ自意識小説でもあるというのは、おそらく西尾維新から始まった流れに沿っているものと思われます。自分の感覚だと、ライトノベルでは自意識小説と呼ばれるタイプの作品は一定数以上が常にあって、存外自意識を描くのにライトノベルは有効なのかもしれないと思わないでもないです。

純文学では充分に自意識を描写できない、あるいは”リアリズム”が持てないのかもしれませんが、その辺は不明。ただ、個人的にはジャンルを切り分けることはあんまり意味がないのではないか、と思っています。ライトノベルで自意識を語ってもいいし、純文がエンタメであってもかまわない、と言うかそういう括りはもう曖昧になって来ているんじゃないかと。

投稿: 吉兆 | 2010.08.10 01:01

難しいですね(苦笑)
主人公を通して自意識を書く=私小説で純文、ということはもうありませんが、確かに現在、純文で充分に自意識を描くことはあまりされていないかもしれません。
芥川賞にせよ、村上春樹を上げられなかった時点で片手落ちになっていた、という意見も強いですし。

ただ、ラノベを「ライトノベル」という括りとして捉えるのは、本質を見逃す可能性も出てきているのかもしれませんね。ラノベ的なキャラ立てをしている一般大衆小説は多いですし、ライトノベル出身の作家が書いている一般大衆小説も多いですから。
だからごく狭い意味での「ラノベ」というと、テンプレート的な要素で作られた……という月並みな解答になってしまうかもしれません。これも認識としては危険かな、と最近は思うのですが。

西尾維新のシリーズの大半を読むと、「ラノベだな」という印象は強いです。
これは悪い意味でなくて、ファンサービスへの配慮もできていて、尚且つ「自意識モノ」としてのアピールも可能なクセの強い自意識も書けている(化物語シリーズにせよ、作者の方向性が変わっただけでそこは変化していないと思います)ので、そのバランス感覚の巧みさが際立っているなと。
西尾維新の場合は割と定法を曲げて書くタイプの作家だと感じているのですが、読者の想定する展開(「テンプレ」など)を悉くずらしていく巧さや、それでも面白く読ませてしまう力がある辺り、やはり飛び抜けた嗅覚でエンタメを書ける人だな、と思っています。

初期の戯言を模倣的に書いていたみーまーは、個人的な意見だと「ああ、西尾維新の影響を消化出来てないんだな」という印象が強かったです。
というか、今回頂いたコメで思ったのですが、西尾維新ほどエンタメとして巧くなくて(言葉遊びやキャラ遊びなど)、それが結果的に微妙に私小説的なエンタメ小説になってる部分もあるのかなと。
ミステリ的なガジェットやキャラ小説的なモチーフで物語を作る西尾維新は、どれだけ自意識を強調しても、それが結果的にエンタメの方に強くフォーカスする理由になっているのかもしれないなというのが感想です。
キャラ配置にしても、例えばこのシリーズの二巻(だったと思うのですが)でリューシがエリオの母を十歳ほど若く見間違える描写がありましたが、これで西尾維新が似たような場面を書くなら、思い切り設定をディフォルメして、いっそ少女として描写していたのではないかと。
なので、剽窃ギリギリのような部分があることも含めて、そういった既存作品とのズレが自分の中で作者を位置付けているのかな、と今は納得できたような気がします。
エクスポでのインタビューを知ってから気になっていた作家なので、自分の興味がどこから来てるのかを位置付られて、少し整理できました。
この度は、拙いコメントにお付き合い下さり、ありがとうございました。

投稿: 名無し | 2010.08.11 19:41

返答が遅れました。すいません。

ライトノベルと言う言葉はちょっと気軽に使われすぎたせいか、意味が拡散し始めている感じもしますね。ライトノベルか文芸かはほとんど言ったもの勝ちの様相をていしてきています。もちろんそこには想定読者は違うんでしょうけど、ラノベを大人が読み、一般小説を子供が読んだって別にかまわないと思うのですね。書き手側はともかく、読み手側が勝手に切り分けて読むべき本とそうでない本を判別するのは意味がなくなりつつあるのでしょう。

あまりきちんとお答え出来なかったところもありますが、書き込みをしていただいてありがとうございました。

投稿: 吉兆 | 2010.08.15 20:19

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