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2009.07.12

『紫色のクオリア』読了

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紫色のクオリア』(うえお久光/電撃文庫)読了。

<注:ネタバレをしないように、かつこの作品のすごさを語ろうとしたところ、スペックが足らず、ショートしてしまった。完全にだれかに読ませることを放棄したどうしようもない記事。歴代何位クラスにひどい。途中で自分が何を言っているわからなくなってる>

うえお久光はとっくにライトノベル作家の領域を逸脱していると思っていたが、これまたすごいのを書いてきたよ!ライトノベルの境界を越えるSF小説のレベルに到達している感じ。いやーすごいやー。

最初の短編は、いかにも綱島六郎コラボっぽい(モデラーヒロインとかね)感じだったのだが、それがどんどん話が転調し、さらに転調し、さらに転調していき、最初のスタート地点からは想像もつかない地平にたどり着く展開がすごすぎる。ここまでの発想の飛躍が出来る作者の頭の中は一体どうなっているんだ?

何がどうすごいのか。言葉にするのはなかなか難しいのだが(何しろ飛躍そのものが物語のすごさに直結しているので、どう飛躍するのかを説明することはミステリのネタバレをするぐらいタブーだ)、一つ言えるのは、”視点”と言うものがすごく物語的に重要な意味を持っているということだ。個人的な話で恐縮だが、自分の子供時代は、人間の世界を見る目に客観などありえず、自分の見ているものが他者に共有出来ないことは明らかで、”赤い”と言う概念を他者に伝えることが出来ない以上、自分の見ている世界は、世界で自分ひとりしかおらず、他者から見た自分の世界は全然別の物ではないか。例えば、自分は実は精神病院に隔離されている患者で、自分は普通に暮らしている世界を見ているだけに過ぎないのではないか、と言う、大抵の子供は一時期は通ると思われる疑問に苛まれたことがあったのだが、この作品はまさしくその疑義を可視化したものだと言える。

もちろん、ヒロインであるゆかり(作中の出番はもっとも少ないのに、これほどの存在感を見せ付けるヒロインも珍しいのだが、それはさておき)の持つ”目”は、まさにその具現と言うかそのまんまと言う感じなのだが、主人公のマナブ(女性です)の”視点”も、形を変えた同様のものであるということが出来るだろう。自分の視点、視座をどこに置くのか。現実を基底するものは、本質的に、主観的な視点でしかない。主観でおいて観測したものこそが真実なのであれば、主観を変質させれば、真実もまた変質するのである。

さて、こんなことを書いてしまうと、勘の良い人はどういう話なのか、想像がついてしまう人もいるかも知れないなあ。でもねえ、その想像は、多分間違っている。なぜなら、この作品は別にイーガンでもチャンでもなく、うえお久光の作品なのだ。観測する世界が間違っているのなら、観測を変えようとする、意思する力を肯定的(それは否定的ではない、と言うレベルではあるものの)に捉えているのが、うえお久光なのだ。

物語は転調を繰り返す。幾度も幾度も転調する。物語とは、観測者によって紡がれるものだからだ。観測者によって物語は紡ぎ続けるし、続けることが出来るのだ。マナブの犯したたった一つだけの誤謬が物語を逆に加速させ、暴走させていく。その暴走こそが飛躍であり、転調に繋がるのだ。うえお久光は、その暴走を否定しない。肯定もしない。行き着くところまで行き着いた結果、一つの結論が、ポツン、と生み出される。それは意思だ。それが意思だ。価値があるとすれば、一人では観測できないことも、二人でならば、観測できるというただそれだけの意思を生み出すための誤謬なのであった。

ここにいたっても、うえお久光は”視点”を操り読者に対して提示してくる。その視線は、視点は、一体だれの”主観”ですか?それはあなたの主観なのでしかないのでしょうか。その視点は世界を変えることが出来るものなのでしょうか。

出来る、と言ったのはうえお久光であり、かの人の言葉によって、生きることへの目的を取り戻したマナブの結論は非常に面白くもある。物語の転調。視点から、関係への展開。視点と言う世界を確定的に支配するものを失った後(捨てたということは、決して目を逸らしてはならないことだ)、生まれるのは”関係”の世界だ。それまでが徹底したエゴに基づく主観でしかありえない世界の後、世界は一人では生きていかない、いけない世界を産み落としたのだった。そこでさえ、人のクオリアは決して共有されるものではないのだ。人のクオリアの孤独は決して救われるものではない。だが、関係と呼ばれるものがある。お互いのクオリアを、言葉で、仕草で、絶望的なまでに届かないそれを伝え続けること。それこそが”関係”の世界だ。

物語は転調を繰り返して”関係”の世界に落とし込まれた。だが、読者はそれを知っている。関係に至るまでの世界を。それゆえの困難があるであろうということ。お互いのクオリアを。共有できぬものを。それでも語らなければならないということ。最後にゆかりとマナブがやったことは、そういうことであって、お互いの見える世界観がどうであろうと、しかし、人間はともに在ることが出来るのだ、と言う、明快な論理である。本当に出来るのかどうかについては、きちんと描いていないところは作者の誠実さととるべきなのかもしれない。

ただ自分は、そこに希望を感じるだけなのだ。自分の運命を変えられるのは、本人の意思と、他人の助け。ともだち、とかいまさら言ってられるかー!なんて話を書いてしまうのは作者の限界か、個性か、あるいは可能性か。僕にはまだ、うえお久光を正しく判断することは出来ていないようだ。この作者がどこまで突き抜けていくのか楽しみにしつつ、見守って生きたい。

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コメント

私も読んだんですが、あまりの内容に頭がぬわーってなりましたね。

発想の飛躍が半端なさすぎですね。

投稿: SHI-NO | 2009.07.14 00:30

うえお久光は本当にすごいなーと改めて思いました。すでにラノベの領域を超えていますね。SF好きの人にも読んでもらいたい作品だと思います。

投稿: 吉兆 | 2009.07.14 22:34

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