今更ながら『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』について書いてみる
とくに自分の中に考えがまとまったわけではないのだが、今を逃すと書く機会を失ってしまいそうな危機感を覚えたので書く。考えについては書きながらまとめる感じで。
完全無比のエンターテインメントだった、と言う点は特筆に値すると思う。旧世紀版のエヴァと言うのは、当初は気弱な主人公だったシンジが少しずつ成長していくと言う話にみせかけて、それらすべてが崩壊していく負のカタルシスに満ち溢れていた作品だったが、今回はまったく違っていた。単純に明るい作品になったというわけではない。なるべくしてなった、と言うか、旧世紀のキャラクターが大きく変わったわけではないと思う。ただ、彼ら、彼女らを取り巻く状況にやや変化があったような印象を受けるのだ。
ちょっと先走りすぎたか。まず旧世紀版のエヴァについては、とにかくあれば庵野監督の怨念と言うか、呪いのようなものだと解釈している。自分の作品を勝手気ままに消費し、ズタボロにしていく”オタク”に対する強烈な怒り、憎悪と言うべきものが、旧世紀版にはあった。とくにそれは旧劇場版(『THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』EOEと略す)で顕著だった。その圧倒的憎悪をオタクは叩き込まれ、はっきり言って、当時のオタクは狂乱状態に陥ったと言っていい。打たれ弱いのは今も昔も変わらないオタクの特性だ。その結果、なんとかして作品を”解釈”しようとするさまざまな意見が百出したのは、皮肉なことと言う他ない。庵野監督の意図を超えて、エヴァの呪いは脆弱なオタクのトラウマとなってしまったのだ(もっともどこまでが庵野監督の意図だったのかは想像の域を超えることは出来ないが)。無論、その中には庵野監督のメッセージを正しく受け取り、オタクをやめる(少なくとも健全化する)人々もいたことであろうが、個人的な感覚としては、それでオタクをやめることは出来なかった人が多かったように思う(個人的には、エヴァは自分のオタクとしてのあり方を考えさせてくれる作品であったので、その意味では有益であった)。
それに対して、新劇場版において、庵野監督は自らがかけたオタクに対する呪縛を、呪いを解きにかかっているのではないか、と感じるのである。あるいは作品そのものに対する救済かもしれないのだが、実質的にはイコールであると思う。エヴァと言う作品そのものを粉々に粉砕し、踏みにじったのが庵野監督自身だとすれば、それを修復することもまた庵野監督にしかできない。14年を過ぎて、庵野監督は自らが破壊したものの再構築を行おうとしているのではないかと思うのだ。それは、14年前に呪いをかけられたオタクに対する救済でもある。冷たい現実を生きろ!と突き放されたEOEに対して、オタクとして生きていく自分を肯定してくれる作品になるのではないか。まあ、これまた個人的な意見になるが庵野監督は別にオタクを救済しようなんて露ほども思っていないと思うんだけど。あくまでもエヴァと言う作品を救おうとしているだけに過ぎないんじゃないかな。ただ、それがかつてのオタクを救うことにもつながる。以前、全否定されたオタクはあくまでも一側面でしかなくて、オタクとしての在り方そのものは否定されるものではないのだと言うイメージを、僕は破に持ったのだった。
なんかちょっと脱線したような気もするが、それがシンジたちの(周囲の状況の)変化につながっているのではないか、と思うのだ。破においては、シンジを初めとしてアスカもレイも、ミサトもゲンドウでさえも、以前とは異なる反応をしているのではなく、それはキャラがブレたものではなく、単純に状況が違うということが言える。例えばシンジは序においてほんのわずかに”自分で覚悟して行動する”ことが出来た実感ゆえか、他者に対して本当にすこしだけど積極的に行動できるようになっている。それに応じてレイがシンジに対して気持ちを開く度合いを大きくなり、その後の行動につながっていく。アスカは以前より”個”として生きようとする側面がクローズアップされることにより(加持との関係はオミットされているようだ)、他者とかかわりを持って生きていくシンジに対して、心を開いていくようになった。ミサトも私的な復讐と言うよりも、人類の存亡をかけて行動する指揮官として、そしてシンジに対する家族的な側面が強くなり、より”シンジ側”の人間である描写が増えていた(もちろん基本的な部分でシンジに己の希望を押し付けていたりしているところはあるので、キャラはブレていない)。ゲンドウは、EOEにてすでに子供に対してどう扱って良いかわからないと言うマダオ(まるで、ダメな、おとうさん)であることはわかっているので、今回のちょっと歩み寄っているどころか、シンジに対してちょっと罪悪感めいた(心理的に気後れしている)描写もあって、非常にわかりやすかった。
なんかだらだら書いてしまったが、ようするにキャラが変わったのではなく、状況が少しだけ変化し、それによるキャラの反応が変わってきたのではないか、と思えるのだ。シンジは別に逃げ出しているわけでなく、ただ自分の嫌なことをしたくないという頑固さが根底にある(レイを助けるために駆け出すのだって、目の前の大切な人を失うという”嫌なこと”を味わいたくないという思いがエヴァには乗らないという思いを上回ったに過ぎない)ことがわかることからも言える。要するに今までのエヴァを否定するのではなく新たに”肯定しなおす”、と言うことが『破』においては言えると思うのだった。おそらく、続編のQにおいても、決して単純な憎悪に彩られたEOEのようにはならないだろう。もしかしたら予想外の悲劇が襲うかもしれないが、それは確かな肯定の元に行われるものであろう、と思うのだった。単純な”否定”を、すでに庵野監督は乗り越えている。それだけで終わるものは作らないであろうと言う信頼を感じさえするのだった。
なんか全然まとまってないけど、まあいいや。
以下、観ながら思った断片。ネタバレだらけなのでご注意を。
・エヴァンゲリオン仮設5号機の出オチっぷりには吹いた。
・マリのキャラクターは、結局いろいろ思い悩むエヴァキャラとしては、ありえないぐらい直感的かつ快楽的。なにより、エヴァにおいて、大人の世界と子供の世界は厳然として区別されており、子供は大人に勝てないという世界観が存在しているのだが、マリはまったくその世界観を打ち壊すものだ。自分の目的のために大人を利用することも出来る。これは絶対庵野監督の分身じゃねーよな。どこから来たんだ?フリクリ?
・シンちゃんの主夫っぷりは異常。この主夫能力でレイもアスカもめろめろにしてしまうシンちゃんはすげえぜ。これも旧世紀版との違いだよな。自活能力があるというか。
・ゲンドウは本当にマダオだな。ゲンドウのことが理解出来てしまうとは、やはり自分も年をとったのか…。まあ、ちゃんと食事会に参加しようと思ったことは確かな進歩だ。
・アスカはエロかった。うっせーな文句あるか。
・アスカの「自分一人で生きていかなければならないの」と言うのは、明らかに孤独の裏返しだよね。本当に自立している存在はそんなことは考えません。マリがいい例だ。だから、自分ひとりでは生きていけないということを感じたアスカが、急速にシンジに心を開いていくのは、前述の主夫能力も含めて自明だよな。頼っても大丈夫な感じなんだもん。
・レイのぽかぽかは…うん、まあありだよね。自分の意思が確かに生まれている。人形ではないという確かな証。リツコさんにはそっこーで否定されてたけど。
・しかし、リツコさんは出番がねえなあ。完全に驚き役と解説役じゃねえか。ミサトの同年代の関係という役目も、加持にとられてしまった感じもあるしなあ。
・加持は、この作品においては本当に真面目に大人として、子供に何かを残そうとしている部分が強調されてた。自分のことしか考えないおっさんたちとはえらい違いだ。
・アスカ→3号機+ダミーシステムによる捕食展開は初回時は普通に驚愕。それまでの死亡フラグから予測はついていたが、BGMのキ○ガイぶりも含めてびっくり。一緒に観ていた友人の、「おいおいマジかよ…」という言葉が妙に耳に残った。呆気にとられるよな。
・ダミーシステム使用時のゲンドウの表情に視聴3回目でようやく意識が向いた。ニヤリ、という表情なんだけど、何と言うか虚無的と言うか、なにかを諦めた感じの笑み。これでシンジとの関係が徹底的に断絶するという自嘲の笑みか…。
・3号機事件、ここでミサトさんがいないのは致命的だったよなあ。ミサトがいればシンジを上手く乗せて、”アスカを助ける”と言う選択肢を選ばせることも可能だったろうに。マダオは自分の計画が一番だからな。冒険はしない。
・シンジの反乱のあと、ゲンドウがシンジに投げかける「大人になれ」という台詞も、一応、ゲンドウなりに真面目な言葉なんだろうな。相変わらず子供とのコミュのダメなマダオらしい。
・シンジのエヴァに乗らないという言葉には、大人として人類の未来を考えることが出来ない、自分の大切なものを傷つけるくらいならそんな世界は知ったことではないと言う短絡的なものだけど、それは逆に健全な少年らしさを感じるなあ。大人と子供の断絶といってしまえばそれまでだけど、それを理解出来てないのがマダオのダメなところだよな(もはや完全にマダオ呼ばわり)。
・返す返すもここでミサトがいれば…。ミサトが戻ってきたときには、完全に心を閉ざし、どんな言葉も受け付けないシンジがいるだけだもんな。それでもその扉を開こうとするミサトは、ちゃんとシンジと向き合おうとしている。
・ゼルエルさんこと第10使徒。マリ=2号機のバトルは単純にかっこいい。マリが楽しそうなのがいいよね。
・つうか、本当にマリは異物だなー。物語にはまったく関わってこない。が、物語を引っ掻き回す。
・シンジがもう一度エヴァに乗ることを決意するシーンも大分解釈が違うよな。これは目の前でレイが捕食されることにより、アスカと同じことを繰り返してしまうことへの拒否感の表れだろう。旧世紀版では、シンジに対して明確な方向性は存在しなかった。とにかくがんばる以上の物ではなかった(一話の逃げちゃダメだと本質的には同じか)。暴走の展開の違いもそこに起因するのではないかなー。
・ここでもマリはグッジョブ。絶対にエヴァに乗らないと心を閉ざしていたシンジを、持ち前の無神経さでもって無理矢理引っ張り出すのは異物である彼女にしか出来ない。換言すれば”庵野監督の演出意図を超えることが彼女の役目”なんだろうなーとか(彼女には彼の心を閉ざしているメタファーなんぞ気にもかけない。ミサトが扉の外に出たシンジの手を捕まえられなかったのと対照的)。
・その結果、シンジは自分がエヴァに乗らなかったことによる最悪の結果を見せ付けられることになる。アスカの時と同様に。だけど、もしかしたらまだ間に合うかもしれない、というただそれだけの違いが、彼を走らせた…と思うとぐっと来ますねー。
・シンジが「エヴァに乗せてください!」というシーンで、初めてゲンドウが怯むようなカットがある。この瞬間、常に上位に立っていたゲンドウがシンジと同じ地平に降りてきたという意味であり、対等の男として向き合ったということを意味するのではないか。
・その後、自身も返り血で血まみれになりながらも、一時も目をそらさずにシンジの戦いを見据えるゲンドウとか見てるともうね…。二人の間にはもしかしたら和解の可能性があるのではないか、とか思うとすごい泣けてくるよ。感動したよ。
・ゼルエルとのバトル編。起動停止した初号機の覚醒シーンの差異も、シンジの明確な意思の方向性の問題なんじゃねえかなあ。
・しかし、たしかにこの瞬間のシンジは天元突破しておる。螺旋力は世界を変える力!
・炯炯と光る目を見開くシンジのシーンは、確かにちょっとゾクっとした。初見のときは何も考えられなくなってたな。
・リツコさん。人で無くなる無くなるうるせーよ。螺旋力は人間を超える力!
・ミサトさんがここでシンジを鼓舞したのは、アレだよな。「オレが信じるお前でもない。お前が信じるお前を信じろ!」ってやつ。他人のことなんてどうでもいい。ただ、自分の望みを叶えろ!それは誰にも否定させやしない!
・ミサトさんの発言は、その意味では非常にギリギリ。サードインパクトを起こさせないという強い使命感で維持されているはずのネルフと言う組織(そしてそこに生きる人々)の存在意義を否定しかねない。
・けど、それが全体よりも個人を優先するというわけではなく、全体を救うために個人を犠牲にする必要なんてない。個人がなければ世界とつながることさえ出来ない、と言うことを語っているようで、ああ、本当に庵野監督は”その先”に進むつもりなんだ…と思った。
・カヲルくんの言うことは相変わらずさっぱりわからんが、まあいつものことか。
・Qの予告編。アスカが出てきた瞬間は、あれーもう出しちゃうのー?と思ったが、アスカ好きの人があのままにされたら発狂するだろうから、あのタイミングがベストなのかもな。
・とにかくとても面白かった。
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コメント
いやー、面白く読ませて頂きました。色々アニメ系ブログは見たけれども、その中でもかなりの内容だったと思います。ちなみに仰っている内容に近くかつ既知かもしれませんが、若干自分的な補足を。庵野監督はEOEのあたりでは、オタクを憎んでいたのもありますが、自分を取り巻く世界自体と自分自身を憎んでいたのではないかと。風呂敷を広げることは出来ても畳むことが出来ない自分の状況(オメデトウ落ちはその最たるもので)、そしてそれに伴う壮絶な叩き、劇場版を作ろうとしてみたけれども再び物語との断絶を起こし(REBIRTHのアクションと急展開に頼るプロットまでしか作れなかった)、ようやくまとめたのは自らの絶望を叩きつけた実写を含む凄惨な内容。あの時点で庵野監督はオリジナル内容のアニメと視聴者とそれを作る自分自身に絶望し、実写と原作アニメ(これは結局失敗しますが)に流れていった。一連の流れを見ると、庵野監督は常に求め得られないことに対して絶望を感じていた。これはヒロイン不在、淡く他者を求めそして拒絶されるシンジの物語とクロスオーバーしています。ですが、結婚を経て求め受け入れられることを得て大人となった庵野監督が(この辺りは監督不行届・安野モヨコ著に。面白いです)、一人のヒロインを救おうと全てを投げ打ち物語の結末さえ変えようと今回の「破」で、愛というか相手の中に踏み込むというか、そういった大人になる的なところに踏み込んできた様に思います。
多分ですが、劇場場の結末は大人になること、かつてEOEで得られなかったゲンドウとの結末とレイ本人(EOEではレイは既に亡い)との恋愛的結末が語られるのではないかと。恋愛的と書きましたが、これはよくあるヒロインとハッピーENDという事ではなく、庵野監督にとっては世界全てを変えるような出来事だと、自分を否定してきた全てから抜け出せるたった一つの方法だったと思います。そしてそれを得たから、彼はもう一度エヴァンゲリオンを作ろう、今度こそつくる事が出来る、終えることが出来る(求め得られる必要があるものが分かった)と思ったのではないかと。
・・・・とまあ徒然に書きましたが、あくまで一個人の感想なので、
合っているかどうかは分かりませんが(汗)、ブログを見て画面を見た時の興奮が蘇ってきたので、コメントさせていただきました。また、何年後かの次の劇場版でもブログでの感想を心待ちにしておりますね。
投稿: sh9 | 2009.07.24 19:30
ありがとうございます。EOE時点の庵野監督の心境については、どう足掻いても本人以外、わかることではないでしょうね…。どこまでもそれぞれの個人的かつ主観的意見に留まると思います。なのでそのあたりはあまりつっこまない方が良いのではないかと思われます。…まあ、自分の勝手な想像をしてしまっていますけど…やっぱり気になってしまいますね。
ともあれ、EOEが庵野監督の当時の心境と言うかテーマをかなり反映していたというのはありそうな話なので、かつての自分をどのように超えてくるのか、新劇場版の展開には目が離せませんね。
そのうちBDなりで発売されたときに観直すと思うので、また何か書くかもしれません。
投稿: 吉兆 | 2009.07.24 22:47
早速のご返信ありがとうございます。
確かに当時の庵野監督の心情は本人にしか分からないものが多々あり、結局コメントやら状況やらから推測するしかない訳ですが(笑) そういう意味では、当時プロデューサーが言っていた様にエヴァンゲリオンとは制作者の心理に深く入ってしまう特殊な作品なのかもしれません。だからこそ流行ったし、今も存続し通用するというか。そしてついついコメントも長文に(汗)
お忙しい中ご返信頂きましてありがとうございました。また宜しければお邪魔させて頂きますね。いつも面白い記事をありがとうございます。
投稿: sh9 | 2009.07.25 00:37
こんなまとまりの無い記事に過分なお言葉だと思いますが、ありがとうございます。自分が言葉を残す意味を少しくらいはあったのかな、と嬉しいです。自己満足的な文章しかないブログですが、これからもよろしくお願いいたします。
投稿: 吉兆 | 2009.07.25 00:49