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2009.06.13

『アクセルワールド02 紅の暴風姫』読了

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アクセルワールド02 紅の暴風姫』(川原礫/電撃文庫)読了。

相変わらずとても面白いです。しかし、何が面白いのか説明し難いのも相変わらず。一ついえることは、キャラクターが本当に活き活きと描写されているように思えることが言える。ただし、僕はこの作者がいわゆる深い人間性を描いているタイプだとは思わない。けっこうキャラは記号的なんですよね。ただ、記号を記号で終わらせない肉付けの仕方が本当に上手いのだ。記号的なはずなのに、本当に魅力的な人物に思える。これはちょっとどころじゃない作者の非凡さの表れだと感じるのだがどうだろう。

例を挙げると、主人公の親友ポジションにタクムと言うキャラクターがいる。まあ正直、主人公の親友にして、相棒なのでそれなりには重要なキャラなのだが、どうもキャラ立てが地味だ。顔が良くて頭も良いタクムは、逆に言うと強い個性が無いため、レギュラーにするにはどうかな、とさえ思っていた。ところが、作者はある意味完璧超人(としてのキャラ付け)を、続編にあたって眼鏡キャラでハカセくん(≒解説キャラ)と言う属性を付与したことにより、別の方向にキャラクターを印象付けているのだ。このあたり、地味なところだが、作者はやはり上手さを感じる。しかも、過去の贖罪意識のために、主人公に深く関わりながらもハーレムを阻害しないという理想的な親友ポジション。まあ本人にとっては大変だろうけど、物語的には見事な配置だ。

これを一つとっても作者の入念な気配りが行き届いており、脇役でさえこうなのだから、メインを飾る面々においては、ちょっとどころではない形容の見事さがある。ハルユキは相変わらずコンプレックスの塊だが、それで終わらないヒーロー性をきちんと体現しているし、気高く強い黒雪姫の、ハルユキに対してだけは可愛らしい姿を見せる描き方など、ちょっとやりすぎなぐらいに上手い。むしろあざといほどだ。しかし、そのあざとさをあざとさに感じさせず、むしろ上手いと思わせるところが作者のすごいところだと思う。

また、主人公カップルの描き方がすごく良い。『ソードアートオンライン』のキリトとアスナの関係にはぜんぜん納得がいかなかった自分だけど、ハルユキと黒雪姫のカップルは違和感ない。何でかというと、黒雪姫がハルユキに好意を抱く過程に納得が行っているからだ。黒雪姫がハルユキに興味を抱いたのは、彼の卓越した反射速度がきっかけであって、相手の優れた一面を知って興味を抱くのはぜんぜんおかしなことじゃないはずだ。容姿が端麗なのや、勉強、スポーツに優れている異性に好意を抱くのとなんにも変わらない話なわけだ。彼女の場合、興味を惹く対象が、バーストリンクに優れた適性を持った相手だったってだけのこと。で、その興味が、本人の個性に触れて(ハルユキの場合は、その可能性に対して過度の自己評価の低さにほだされたってのもありそう)、好意に変化するのも、すごく自然だ。また、今回初登場の赤の王ことスカーレッド・レイン、ニコについても、最初は小生意気なクソ餓鬼のように見せて、彼女を受け入れようとするハルユキにだんだんと心を許していく関係も良くて素晴らしかった。このように、関係性の描写が極めて美しく、おそらくこの作者の卓越している部分と言うのは、こう言ったあたりにもあるのかもしれないと思うのだった。つまり関係性の構築の快楽をつく、と言う(ソードアートオンラインはややそのあたりが甘かったので、その意味では習作と言える位置づけだったのかもしれない)。

また、次回以降の伏線と思われる部分もそこかしこにばらまかれており、いくらでも物語を続けられそうな風格を感じさせるのも良い。チユリ関係の話は彼女のバーストリンク参加フラグですねわかります。彼女の参加のドタバタだけで本一冊書けるんじゃないかこの作者なら…。こういうわかりやすい伏線を張ってくれるのは作者の個性よね(良い意味でも悪い意味でも)。クロムディザスターに関する伏線も(赤の王との関係性も描写されており、美しい構成だ)きちんと張られており、ラストバトルが必然的に起こるべくして起こったという感じが強く出ており、素晴らしい。

もちろんバトルシーンも、たんに派手はアクションと言うわけではなく、登場人物たちの葛藤をメインに描写し、それを乗り越えることがバトルに反映されている手続きがきちんとしているので、勝利にも敗北にもまったく違和感を感じない。どちらもそれ相応の理由があり、主人公が覚醒して勝利するのにも、そこに至るまでの葛藤の流れが極めてスムーズで、主人公補正以外なにものでもない展開のはずなのに、ご都合主義的な部分が全然見えないのもすごいといわざるを得ない。

さて、いろいろ書いてみたが、なんか自分絶賛している。正直、文句をつけるところがねーぞ。困った。うーんうーん、そうだなあ、あえてケチをつけるとするなら、上手すぎること、そして上手さがわかり易すぎることかな。伏線とか、読者にわかり易すぎだよ。もう読者の知性をこれっぽっちも信用していないよね!そのあたりはムカつく。読者を舐めんな!と言いたいところだが、誰にでもわかりやすいと言うのは長所以外なにものでもないのでいちゃもんですよね。あー素晴らしいです。

書き忘れたことがあったので追記。バーストリンクの世界っていうのは、完全にモラトリアムの象徴としてのそれだよな。『ソードアートオンライン』も社会にコミットメントすることを拒否(あるいは拒絶)された人々の物語であったので、このあたりに作者のメインテーマが隠されているのかもしれない。それが単に現実逃避の物語で終わるのか、それともそれ以上の物語に昇華されるのか。そのあたりに作者の格が問われるところだと思うので、注意深く見守っていきたい。

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コメント

質問です。『記号的の定義をどのように限定しているのか教えてください』(かなり基本的な質問な気もするのですが、明確な定義を述べているサイトなどがみつからなかったのでここに書き込ませていただきました。もし以前定義を定められている場合はそこを教えてもらえるとありがたいです)

感覚的には「記号的」と言われればわかる気もするのですが、改めて記号的とは何かと考えるとわからなくなってしまいました。「記号的」の対義語を考えてみると何なのか?それも考慮しているところです。

現在手元に東浩紀氏や大澤真幸の本などを広げながら考えています。そこには「記号的」という言葉の明確な定義が載ってはいないのですが、現代のオタク文化に対して言及しているであろう個所がありました。(アニメ「ほしのこえ」に物語の背景設定がないことに言及して)「これは僕ですらそう感じるのですが、ある程度古いタイプの「物語」を知っている人間からすれば、貧しいとしか言いようのないプロットです。設定もない、心の交流もない、引用の戯れもない、何もない。恋愛という観念だけが、30分間、音楽に乗って謳いあげられていく。」(NHKブックス 自由を考える p114より)

私はこれらなどを読んで(ブログにも多少書いたのですが)、「記号的」とは「キャラクターが作者の設定した条件などのために意図的に選択の幅が限定されてしまった状態」が関連しているのではないかと考えていました。この意図的な限定とは例えば恋愛シュミレーションゲームなどでのヒロインキャラクターや主人公に当たるのではないかと考えています。(なぜなら、ヒロインキャラは基本的に主人公を愛するように設定されており、いかに“キャラが立って“いようと自発的に行動しているようにみえようと、その実選択の幅は“主人公を愛する“という前提に沿って限定されている。また、主人公も「選択肢」は与えられていても、裏を返せばそれ以外の選択肢が消去されているとも捉えられる)

ただ「記号的」がここに直接当てはまるとも考えてはいません。あくまで関連しているのではないかと推察しているだけです。考えなどを聞かせてもらえるとありがたいです。

投稿: てれびん | 2009.06.14 22:01

うーんそうですね。それほど厳密に定義して使っているわけではないので、てれびんさんのお役に立てるかわかりませんが、まあ意見の一つとして聞き流してください。

ここで使用している「記号」とは、オタク的エンターテインメント(ライトノベル、アニメ、ゲーム)的な文脈に属する戯画化された個性という意味合いです。

上手く言葉にするのが難しいのですが、「記号」とは、”キャラクター”を描くためのもので、”人間”を描いているものではありません。あくまでも、人間の持つ、ある種の側面を、抽出し、徹底的に戯画化し、単純化したものです。人間性という抽象的かつわかりにくいものを、単純に分類した、と言う言い方も出来るでしょうか。

戯画化するに当たって、オタク的言説において、不要な部分は削ぎ落とされます。端的に言って、”萌える”要素のみを過剰に拡張された個性であり、現実の人間的にはありえないものといえるでしょう。

てれびんさんのおっしゃる「キャラクターが作者の設定した条件などのために意図的に選択の幅が限定されてしまった状態」と言うのは、記号化された段階で、キャラクターがとりうるべき行動の選択が狭まってしまうためではないか、と言うのが私見です。本来、人間はいかなる選択を(それこそ矛盾を孕んだ選択さえ)するのですが、記号化されたキャラクターには、志向性を付与されるため(これは厳密には記号化ではなく、物語を駆動させる装置としての機能かも知れません)、それはありえないと思えます。

ええと、ちっともまとまりの無い文章ですが、僕が使う記号的の意味合いはこんなようなものです。個人的には「記号化」の反対語は「抽象化」のように感じていますが、それをきちんと言葉に出来るほど考えが整理できませんが…。

わかりにくい文章で申し訳ありません。

投稿: 吉兆 | 2009.06.14 23:51

いえ、とてもよくわかりました。ありがとうございます。わたしも似たようなことを感じていたのですが、明確な言葉にしていただいてはっきりと理解できてきた気がします。人間に関する描写のあたりは私も常々感じていたことです。
私個人の私見としては、「記号化」の類義語に「データベース化」や「キャラクタライズ化」があり、対義語には「大きな物語化」とでもいうものがあるのではないかと感じています。
私も十全に理解はできてないのですが、「大きな物語」とはかつて我々を包んでいた「無意識に作用する常識」のようなものと理解しています。
例えばキリスト教などがよい例だと思います。かつてヨーロッパではキリスト教という西洋の人間の無意識に根付く共通の認識がありました。あらゆる人間はこのキリスト教を背景に生きてきました。それは行動の明確な理由などを必要としませんでした。ある種絶対的な位置にある概念でした。しかし現代においてはキリスト教は数ある「宗教」の1つになり下がってしまいました。仏教、ヒンドゥー教といった数ある「宗教」の中の1つに閉じ込められてしまいました。つまりキリスト教を頂点とした「ツリー型」の世界から、キリスト教も数ある宗教の1つにすぎない「データベース型」世界になってしまいました。これを「大きな物語の没落」と表現します。
このような世界の変化が明確に表れているのがオタク文化における「人間たる可能性が剥ぎ落された人間」である「記号化」された人間ではないかと感じています。
その意味では吉兆さんの仰られた「抽象化」というのは似た意味合いを含んでいるのだと思います。
……なんか私のほうこそまとまりのない文章ですね。(笑)丁寧に答えていただきありがとうございます。

投稿: てれびん | 2009.06.15 01:17

「大きな物語の喪失」というのは、東浩紀氏の著作の中でも言及されている言葉でしたね。なにぶん読んだのはずいぶん昔なので、細部は忘れてしまいましたが。

大きな物語からデータベース化への流れと言うのは、実感として納得できるところは多いと個人的には思っています。自分の中に他者と共有出来る共同幻想は、どんどん小さくなっている感は肌で感じます。まあ、これは自分の嗜好が少数派である可能性もありますが。こうした個々人で細分化された嗜好に対応するために、萌えおよび記号と言う概念が生み出されたのかもしれない、と言うのは間違いなく妄想ですなー。

投稿: 吉兆 | 2009.06.15 21:19

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