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2008.06.15

『ダブルブリッドⅩ』読了

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ダブルブリッドⅩ』(中村恵里加/電撃文庫)読了。

この物語には、意外な展開と言うものは何一つ無い。ただ、物語はあるがままに、登場人物たちがそれぞれに与えられた役割(≒運命)を忠実に、そして十全に果たし切った末に辿りついた、当然の、そしてあるべき物語があるだけだ。

過酷な運命に対して、泣き言を漏らすことも無く、逃れようとするのでもなく、ただ受容する。押し付けられた運命に対して、泣き喚くことも無く、誰かに押し付けることも無く、背負い続ける。たとえ、その結末が悲劇でしかなかったとしても。悲劇的な運命を抗うことなく受け入れ、悲劇的な結末になった。果たしてそれは運命に対する敗北であろうか?運命に流された結果の無力さでしかないのだろうか?

その答えは、否、だ。

それはたぶん、僕が言うべきことではないのだろう。ただ過酷な道を歩むことになった人々にしか語ることを許されない事柄なのだろう。だが、僕は否であろう、と思う。

運命から逃れることは、実は簡単なことなのだ。ただ、すべてを投げ捨てればいい。責任も、しがらみも、役割も。その背負わされたものは、実のところ背負わされた本人には何一つ非があったわけではないのだから。ただ、そのように生まれてしまっただけ。本人の意思を無視して、無理矢理押し付けられただけ。そんなものをわざわざ背負う必要がどこにあるのだろう?放棄したとしても、誰に責められる筋合いではないではないか?

だが、”彼女”はそうしなかった。与えられた運命を甘受した。なぜなら、彼女がすべてを投げ出せば、彼女の愛する人達が不幸になることを知っていたからだ。時に運命と呼ばれるものは、一度逃げ出せばツケがたまる。ツケは利子をつけて必ずどこからか現れる。彼女はそれを承知していた。自分が逃げ出せば、更なる不幸が”自分以外の人達”にさえ降りかかるであろうこと。

だから”彼女”は運命を受け入れた。それがもっとも不幸が少なく、哀しみが少なく、わずかな希望があったから。そこに自分自身が無かったとしても。

いや、もしかしたらそうではなかったのかもしれない。不幸が少なく、哀しみが少ないことそのものが彼女の幸福であったのかもしれない。それは本人以外はだれにもわからないことだ。

そして彼女はわずかな希望にすがりつき、そしてわずかな幸福を救いあげた。それはとてもとても幸運なことのように見えて、とてもとても哀しいことだった。そしてとてもとても勇敢なことだった。そこには愛があった。運命に対する怒りは無く、出来る限りの事をやったと言う感慨だけがあった。押し付けられた理不尽に対する恨みは無く、与えられた命に感謝していた。奪われ続けたことに対する哀しみは無く、得ることが出来たわずかなものを愛おしんでいた。

つまるところ、彼女は幸福に生まれた。幸福に生きた。そして、幸福なまま死んだ。

つまるところ、彼女は歪んでた。狂っていた。そして、とてもとても気高かった。

ふざけるんじゃねえ、と思った。

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