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2008.03.31

その発想はなかった

http://d.hatena.ne.jp/hatikaduki/20080330

>思いついちゃった萌える人間ドラマがファンタジーで無いと実現不可だったのでファンタジー書いてるタイプのひと

あー。あああー。これで僕が感じる女性作家の共通項がだいたい説明できる。作者の中で、どのように考えられているかはともかく、実際の創作物を見てみると、作者が萌える人間ドラマが書きたい!という強烈な欲求は、確かにあるんですよね(異世界と人間ドラマのどちらを重視するかというバランスもありますが)。実際、自分はわりと関係性萌えなところがあって、キャラの記号がどうとか言うよりも、人間関係がどのように推移していくのかの方が楽しいのです。『たった一つの冴えたやり方』も好きです。

そういえば、上橋菜穂子は、精霊の守り人を書き始めたきっかけは”洋画の予告編を見てる際、炎上するバスから子供を抱えたおばさんが脱出するシーンを見たからである”(ウィキペディアより)と言っていたそうですし、まず中年の女性が少年を助け、育んでいくという関係性が最初にあったと考えてもいいでしょうね。荻原規子は、これは僕の印象ですが、徹底してガール・ミーツ・ボーイを主軸にしていて、要するに少女マンガ世界の関係性をファンタジーに持ち込んでいる。五代ゆうは、ある意味、典型的なラブストーリーが基本になっているわけで(ハーレクウィン的?偏見ですけど)、その上にファンタジーがどっしりと乗っかっている。

ただ、『十二国記』が傑作であるという点には同意なんですが、”ファンタジー”としても傑作かと言うと、個人的にはちょっと躊躇ってしまいます(たぶん、hatikadukiさんと僕はファンタジーに対して求めているものが異なっているような気もするんですが)。僕はファンタジーに対しては、実は、極論を言ってしまうとストーリーよりも、作者の想像(妄想)する異世界そのものを見たいんですよね。もちろん物語にはストーリーは不可欠ですし、関係性の快楽もあれば嬉しいところなんですが、それはあくまでも作者の妄想を具現化した異世界そのものを描く、言ってみればツールみたいな感覚かなあ。

その点、『十二国記』は、作者の理性がとことんまで作品全体を支配しているんですよね(まあ、実際はどうなのかわかりませんが)。世界に遊びが無い。地に足がつきすぎているといっても良いのかもれない。全体が作者の制御下におかれているために、作者の主張がストレートに表に出すぎていて多様な読み方が難しい、つまり、物語に”飛躍”が足りないと言う点が惜しいと感じるところなのです。もっともこれは欠点でもなんでもなくて、むしろ、作者が異世界の仕組みをシンプルに(シンプルってのは分かりやすくて強い)構築しているからこそ、キャラクターが自由に動けるし、キャラクターの関係性の快楽も生まれて来るわけですし、そのバランス感覚こそが非凡なものであると理解しているんですけど。

まあ、それらは作品の方向性の問題でしかなく、同じファンタジーの中でも、論理を重視することと、感覚を重視することでも変わってくるので、結局は個人の趣味の問題に還元されてしまうものではあるんですけどね。

しかし、『ゼロの使い魔』って、僕の想像以上に論理的な事をやっているんですな…。そうか、あれは、セーラー服と言う概念を、再構築する過程を萌え展開で修飾したものだったんですか。驚きだ…。しかし、残念なことにセーラー服の萌え要素が今ひとつ僕にはピンと来ないもので、論理は分かっても実感として理解出来ない…。申し訳ないことです。とりあえず、井辻朱美の本を読んで勉強しなおしてきます(積んでました)。

あと、オススメされた『マルタ・サギー』シリーズを読んでみることにします。

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コメント

山頂の王宮と雲海のイメージとか、王という存在ゆえの憂鬱とか、てきめんの罪みたいな歴史上の逸話とか、人のなる木とか、荒みきった心をむくむくのしゃべるネズミに癒されたい!とか、いろんな土地柄とか動物とか行事とか小道具とか、それにそういったあれこれを彩る魔術的漢字選択センスとか、異世界密度は非常に濃いと思うのですよ。
そんで考えたのですけど、あるいは十二国記の世界に対して十二国の人々が不思議さを感じていないところが、気に食わないのではないですかね。その点が、吉兆さんが十二国記の世界にこころ踊る不思議さをいまいち感じられない原因になっているなんてことはありませんでしょか。

投稿: hatikaduki | 2008.04.02 00:55

>十二国記の世界に対して十二国の人々が不思議さを感じていないところが、気に食わないのではないですかね。

いや、異世界の人々が、自分の住む世界について疑問に思うことはまずないでしょうから(いるとすれば、その人はかなりの哲学者でしょうから)、別にそれはかまわないんですよ(と思う)。

ただ、これは小野不由美が読者に対して親切過ぎるのかもしれないのだけどれども、そのファンタジーのガジェットを”描写”するよりも”説明”されている感覚が強いんですよね。これは、発売当時の読者層を考慮していたのかもしれないけども、ちょっとそこまで説明しますか、みたいなところがあって。そこがちょっと勿体無いかなあと思うのです。

ただ、十二国記が傑作であることは間違いないんですよ。多くの魅力的な世界観が大量に、そして緻密に構築されているところも魅力的ですね。まさにそこに人が生きていることを感じさせるほどの緻密さ。その上にキャラクターもかっこいいとあっては言うことがありません。

このあたりは、あくまでも趣味の範囲でしょう。

追伸。
じゃあ、どんなのがいいんだよ!?と思われるかもしれないのですけど、実はあまり明確なものはありません(すいません)。

まああえて言うなら、異世界なら異世界をどかん!と放り込んでいる作品が好きなんですよね。

例えば…超独自の異世界を構築しながら、地の文ですら説明しない『ばいばい、アース』(冲方丁)とか、緻密な世界設定を、自らぶち壊しにする木村航の作品群などですかねえ…。その意味では、中村九郎も、どうしても嫌いになれません(好きとも言い難いのですが)。

投稿: 吉兆 | 2008.04.02 23:19

過去にhatikadukiさんにコメントもらったところを読み直してみたら、セーラー服について、今回とまったく同じことを納得してやがる…。オレって成長してねえなあ。

http://kiicho.txt-nifty.com/tundoku/2005/03/4.html

投稿: 吉兆 | 2008.04.04 15:44

>別にそれはかまわないんですよ
ありゃ、的外れでしたか。お恥ずかしい。


異世界を説明することの功罪についてぐるぐると考えてたのですが。

俯瞰的な情報があったほうが、異世界の大掴みの輪郭を把握しやすいです。そして輪郭を把握するとキャラが立ちます。基本的には異世界もキャラが立ってた方がいいんですよね。物語から半ば自立化している方が。そっちのが分かりやすくて入り込みやすいですし、それにキャラの立ってる異世界に連結している情報は、意味や価値がより大きくなりますから。
一貫したコンセプトだとか、体系化された設定だとかは異世界のキャラを立たせるための手管になります。あと象徴的なアイテムや風景なんかもですね。
大長編ドラとかはタイトルでズバっと基本コンセプトや象徴的なアイテムが伝わるようになってますよね。のびたの~って。宮崎駿作品のタイトルに“の”が入ってるのも、もともとは連結された2つの名詞によって異世界のコアを作り、観客が異世界を把握しやすくするてな理由があったのだと思います。

ただ、いっぽうであんまり異世界がくっきりはっきりとしてしまうと、こんどはファンタジーならではの幻想的な情緒が失われてしまいます。ダーレスの野郎余計なことを、みたいな。
それにあんまりどこもかしこも説明をしすぎると、読者が心を躍らせ、夢を広げるための余地がなくなります。十二国記は僕的にはセーフなエリア内なので気付かなかったですけど、言われてみると確かに俯瞰的な説明をしすぎな感はありますね。世界地図に曖昧な部分や未踏の地域がないところですとか。

その辺のバランスを取るのは難しいことなんでしょうし、また各人の趣味の問題に帰さざるを得ない部分もかなりあるのでしょう。


ついでにどんな異世界が好きかも書いておきます。
ワタクシ、小さいころは図鑑っ子でして、今でもNHKの『ダーウィンが来た!生き物新伝説』とか『探検ロマン世界遺産』とか、あと昔やってた『地球に乾杯』とかが好きでですね、そういった観点から、びっくりどっきり怪生物がたくさん出てくる椎名誠の『アド・バード』他のずるべた未来世界ものや、ぼくの考えた珍祭・電車型ぶつかりみこし編“鉄魂祭”が登場する倉田英之の『TRAIN+TRAIN』4巻とかはたいへん面白く読みました。

それから、実のところ紅玉さんて僕の苦手なタイプの作家さんでして、今はだいぶ耐えられるようになったのですが、いくぶん多感で影響されやすかった中高生の時分などですと、作者の感性にすっぽり覆われてしまっているようなタイプの異世界ファンタジーを読むと息苦しくなってしまったものです。これは設定マニアタイプの作家にも言えて、自分で考えたことばっかり書く作家にはいまひとつ乗れませんでした。
けれども、地に足のついた描写があれば、それは作者以外の論理が作中に登場することになりますので、息が楽になるわけです。
地に足のついた、と言うのは具体的に説明すると、生活感のある描写があるとか、よく組み立てられた社会システムや生態系があるとか、あるいは現実世界の神話や伝説が元ネタとして作品に組み込まれているとか、といったところです。
古橋秀之のケイオスヘキサ3部作は、作者の世界と地に足のついた描写がムチャクチャ高いレベルで結びついていて、そこが作品のステキポイントのひとつだと思われます。特に大量の設定とそれぞれの元ネタとの結びつき方が密接で凄くてそして面白いですよねあれ。

投稿: hatikaduki | 2008.04.05 12:52

ああ、わかったような気がします。

つまり、ファンタジーには、異世界の細部までを構築することで、読者の現実とフィクションの間の共有項を設定するタイプと、己の内面世界のみをダイレクトに反映させる方向性をもつタイプがあって、そのどちらを選択するのかという問題なんですかね?(あーいや、どちらを重視するかの問題かな。一方を完全に選べるものでもないし)

前者の、つまりhatikadukiさんのおっしゃる『俯瞰的な情報があったほうが、異世界の大掴みの輪郭を把握しやすい』という部分は、なんとなく、TRPGを思い起こさせられます。

ちょっと脱線しますが、ソードワールドとか、ガープスとか、僕はわりと好きで世界設定とかを読み込んでいたりしたんですど、やっぱり世界設定と言うものは、一から作るのって凄く難しいんですよね。だから、けっこうそういう設定は、現実の歴史や国を参考にして作られているところがあって、そういった親しみやすさと言うものも、TRPGにはまった理由の一つなのかもしれません。想像のトリガーとでも言うんでしょうかね。

ただ、そういう異世界設定は、いってみれば遊園地のアトラクションのようなもので、前提としてプレイヤーを楽しませることがあるんですよね。そりゃゲームなんですから当然だし、楽しめない、状況次第で勝手に世界観設定者によって変更されたりしては、プレイヤーにとってはたまったものではない。

僕は、最初にあげた『異世界の細部までを構築することで、読者の現実とフィクションの間の共有項を設定するタイプ』の作品には、それと同じものを感じます。つまり、異世界は読者を楽しませるギミックであるわけです。

そうなると、後者である、おそらくhatikadukiさんが苦手としていらっしゃる『己の内面世界のみをダイレクトに反映させる方向性をもつタイプ』は、逆に、異世界を詳細に構築することは重視していなくて、あくまでも作者が描きたいことの舞台設定に過ぎない。だから作者にとって不必要な部分は描かないし、イメージが優先される。

hatikadukiさんのコメントを読んでいて面白いなーと思ったのは、『作者の感性にすっぽり覆われてしまっているようなタイプの異世界ファンタジーを読むと息苦しくなってしまった』と言うところで、僕はまさしく作者のテーマ優先のそういった作品こそ好んで読んでいたんです(菅浩江とかは、そういったタイプだったかな)。異世界を作り出す想像力に、現実のものを交えるのは邪道だ、とさえ思っていました(まあさすがに中学生ぐらいまででしたが、そこまで極端な事を考えていたのは)。

この違いは、hatikadukiさんと僕のスタンスの違いそのままなんですよね。

あまり、僕は昔から”未知なものを解き明かしたい”という欲求が無いようで、どちらかと言うと謎は謎のままで残したほうが面白いと思うタイプの子供でした。空想好きで、この世には自分の知らない世界があると、けっこう本気で信じ込んでいたところがありました(まあ、ちょっと現実に適応出来ない子供といいますか)。

なので、異世界を現実の地続きに描写するファンタジーを読み始めたのは、高校に入ってからでしたね(十二国記も、高校の図書館で読んでいました)。今思えばけっこう勿体無いことをしたものだとおも思いますけど、まあ読書には最適なタイミングと言うものがあるのでしょう、きっと。

そんな僕でも、ケイオスヘキサシリーズはものすごいとつくづく思うですよね。僕はあれは、古橋秀之の”妄想”を、”論理的”に描写してしまったことから生じる過剰さが好きなんですよ。もちろん大量の設定、元ネタを引用していますけど、あれ、根本にあるのは、けっこうロマンチックなリリカルさですからね。そのリリカルさをいかに論理的にくみ上げていくか、というところにケイオスヘキサなんぞという大伽藍を組み上げてしまった古橋秀之の妄想力は凄まじいとしかいいようがありません…。

投稿: 吉兆 | 2008.04.06 18:50

>ファンタジーには、異世界の細部までを構築することで、読者の現実とフィクションの間の共有項を設定するタイプと、己の内面世界のみをダイレクトに反映させる方向性をもつタイプがあって、そのどちらを選択するのかという問題なんですかね?

はい、そんなふうに思います。ただ、その二つは単に違う要素というだけで、相反する両極とかではないと思います。ので、両方の要素を持つ作品も普通に存在すると。

>遊園地のアトラクション

外部から愛でたり、中に入って冒険したりする箱庭としての面白さはあるでしょね。むしろそれがメインですか。
でも、それだけって言うわけでもないです。異世界が物語から半ば独立していると、物語を追っていったときに、その物語の向こうに、その異世界のイメージが2重写しになって広がってくれます。
異世界のイメージは、異世界から自立しつつも非常に近いところにあり、物語と強く結びついて相互に価値を高めあってくれます。情報が2層になることで価値が高くなるのです。

しかも、しばしば、物語と物語の舞台になる異世界の背後に、さらに元ネタになった神話とか伝説とか民話とか都市伝説とかがあるわけですよ。物語からは距離があるしだいぶイメージもぼんやりしてきちゃいますけど。
具体的に言えば指輪物語と中つ国といろんな神話伝説とか、手代木星矢と車田星矢とギリシャ神話とかみたいな感じです。あとデモンベインとその世界設定とクトゥルフ神話とか。
神話も民話も、例えでもなんでもなく再話と言う2次創作の集積ですが、その、時には人類史と同じくらいの厚みのあるイメージの重なりをどう扱ってみようかてのは、ファンタジーの真髄の一端であると思います。

投稿: hatikaduki | 2008.04.10 00:56

>その二つは単に違う要素というだけで、相反する両極とかではないと思います。ので、両方の要素を持つ作品も普通に存在すると。

まあ、あんまり厳密に区分するものでもないですね。あくまでも参考程度でいいでしょう。緻密で計算されつくした世界を構築したとしても、そこから計算ではなく、もう一つの異世界を幻視するのは読者側の想像力の問題ですものね。逆もまた真なり、で、作者の奔放な妄想の中から、作者の論理的な部分を抽出するのもまた読み方の一つですし。

僕もけっこううだうだ言ってしまいましたけど、緻密に構築されて異世界そのものに共感する、と言うことはやはり心躍りますよね。

>異世界が物語から半ば独立していると、物語を追っていったときに、その物語の向こうに、その異世界のイメージが2重写しになって広がってくれます。

あーたしかに。その感覚はよくわかります。ファンタジーを読むとき、物語だけではなく、その奥にある世界全体を味わう感覚ですね。感覚的に非常によくわかります。とくに異世界を感じるのは、実は大きな歴史とか文化ではなくて、ほんのちょっとした街角の描写などの積み重ねていくうちに、だんだん異世界の輪郭がハッキリしてきて、その世界で物語が躍動を始めていく、と言う感覚。ファンタジーって面白いなあ、と思うのはまさにそんなところですねえ。

ただ、難しいのは、異世界を詳細に設定すれば、必ずその向こう側に異世界が幻視できるのか、というとまたそうでもないところなんですよねー。

>元ネタになった神話とか伝説とか民話とか都市伝説とかがあるわけですよ。物語からは距離があるしだいぶイメージもぼんやりしてきちゃいますけど。

まあトールキン先生は博覧強記だったそうで、古いヨーロッパの伝説を集めて異世界、言語から一から構築してしまった稀代の設定マニアであらせられますが、この人の異世界は、確かにさまざまな伝説や神話に影響を受けているわけですけど、だからと言ってオリジナルではないか、といえばそんなことは無いわけで。それだけ伝説を再構築することが巧みで、自分の世界を持っているんでしょうね。その強固な異世界を、決してひけらかすことがなかった、と言うところがトールキン先生の凄いところ。

あくまでも細部を積み重ねていくことで、あくまで読者に想像させていく(…ってのは、まあ、読者にもよるんでしょうけど)ところなんて、最高!とか思います。

そこで想像する世界は、あくまでもオレフィルターを徹して幻視する異世界で、必ずしも、たぶん、トールキン先生が作り出した異世界ではない。けれども、そうやって自分なりのファンタジーを作り出していくことが、幻想を共有して行くという行為なんだろうなあ、と良いファンタジー(異世界を幻視させてくれるもの)に出会うと思うのです。

>神話も民話も、例えでもなんでもなく再話と言う2次創作の集積ですが、その、時には人類史と同じくらいの厚みのあるイメージの重なりをどう扱ってみようかてのは、ファンタジーの真髄の一端であると思います。

神話もまた、多くの人の共有幻想として扱われてきて、多くの人が自分なりの物語として語り継ぎ、語りなおしていく過程でさまざまな多様性を物語が獲得してことで複雑で力強いイメージを作ってきている、と考えれば、トールキン先生がやったこともまた、その多様性を生み出したことなのかもしれません。

などと言うことを考えると、心躍りますな。古い古い物語の残滓が、きっとファンタジーには残っているからなのかなあ、とか考えました。

投稿: 吉兆 | 2008.04.11 00:50

>異世界を感じるのは、実は大きな歴史とか文化ではなくて、ほんのちょっとした街角の描写などの積み重ね
諸設定と描写がお互いに後ろから支えあって価値を増していく好循環になるといいな、と思います。

>難しいのは、異世界を詳細に設定すれば、必ずその向こう側に異世界が幻視できるのか、というとまたそうでもない
設定にも、読者の想像の余地を奪うものと、読者の空想に火をつけるものがありますよネ。この辺はもう作家としての文章スキルの問題になってきますでしょか。

そうそう、迂闊にもあげ忘れましたが、ラノベで設定がスゴイって言ったら筆頭はオーフェンですよね。富士見のヒット作は設定を作りこんでるのが多いですけど、密度・独創性・取り扱いの上手さ、どれをとっても図抜けてるように思います。

それから、変な風に脳みそが回転してしまって、いろいろ書いちゃいましたけど、そもそも僕がある種のファンタジーに苦手意識を持っているのは、ツッコミ不在の作者ワールドでヒューマンな話とか展開されたらオレが痒いだろ!というたいへん本質から外れた理由です。
わざわざ異世界ファンタジーを舞台にしてるのに、作者がまったく電波を飛ばさなかったらつまらないわ、とは僕も思います。作者の世界が作品全体に行き渡ってくれることも、自由度の高いファンタジーならではのことであり、ファンタジーが面白い理由のひとつですもんね。

最後に、あんまり関係ないですけど、森見作品のアニメ化企画進行中みたいですね。テンション上がりすぎて京都に突撃してきました。鴨川等間隔の法則がマジだったことを御報告しておきます。

投稿: hatikaduki | 2008.04.16 17:33

すいません。仕事にかまけていて返答が遅くなりました。

>諸設定と描写がお互いに後ろから支えあって価値を増していく好循環になるといいな、と思います。

それが最良ですよねえ…。
なんかコメントをしているうちに、お互いに異世界構築派と異世界イメージ派(適当な命名)にスタンスが分かれてしまっていましたけど、本質的には相反するものでもないんですよね(などと言うと議論の意義に関わってきますが…)

>オーフェン

どうも秋田禎信って言うのは、僕にとっては不思議な印象がある作家なんですよ。僕は、この人のデビュー作である『ひとつ火の粉の水の中』(ライトノベルでありながら、人物描写と背景描写がほとんど無いという異常な作品)もの凄く好きで、ほとんど愛していると言っても良いぐらいなんですけど、デビュー後第一作がいかにもライトノベル調(当時はスレイヤーズ的、といいますか)の作品が出てきてびっくりした記憶があります。

軽妙な描写でいかにもライトノベルという感じで最初の方は読んでいたんですが、読んでいる途中でだんだんそこから逸脱をし始めて、なんかキャラクターの裏側でなにやらうねうねとした得体の知れない”なにか”(いま思うとこれが異世界だったのかなあ)が現れてきて、よくわからないけどすごいものが出来上がった印象があります。

実を言うと、『オーフェン』って長編の10巻あたりまで読んだところでよくわからなくなって、途中で売っちゃったんですよ。そして一年ぐらいしてから、何故かもの凄く続きが気になって、もう一度買い揃えてしまったという…アホですね。

実を言うと、いまだにあれをなんと表現したものか、よくわからない…。

>そもそも僕がある種のファンタジーに苦手意識を持っているのは、ツッコミ不在の作者ワールドでヒューマンな話とか展開されたらオレが痒いだろ!

あはは。『(作者にとって)ヒューマンドラマ』をやっちゃうタイプですかね。僕とは価値観があまりにも異なっていて、面白い面白くない以前に意味がわからない(あるいはイライラさせられる)ファンタジー(に限らないけど…)はわりと覚えがあります。そう言う作品は、純粋に生理的なも反発があるので、他の部分がどんなに優れていても評価できなくなってしまうんですよ…。

>森見作品のアニメ化企画進行中みたいですね。

ジブリがアニメ化すればいいじゃない、とか言ってた自分は先見の明があったのか…。ちょっと、どんな風にアニメになるのか予測がつかなくて、恐ろしい気もします。

>鴨川等間隔の法則がマジだったことを御報告しておきます。

えー…それは作者のファンタジーだとばかり思ってました…。そんな不思議法則が現実に存在するのか…。

投稿: 吉兆 | 2008.04.22 14:42

>返答が遅く
僕もずいぶんとびとびでコメントしてますし。コメ欄での交信はゆっくりでもいいかなとか思ってしまって。
いやそりゃなるたけはやめにお返事しようとはしてるんですけどね、でもどうにもなかなか……。

>秋田禎信
ひとつ火の粉~はむかし読んだはずなのにどうも内容が頭に残ってない……。きっとピンとこなかったんだろうなあ……。
オーフェンはあれですね、女神の侵攻と言う絶望の影をちびちびとほのめかしつつ、主人公オーフェンの物語の背後にアザリーとキリランシェロ、イスターシバとチャイルドマン、天人種族と魔術士、女神とドラゴン種族てな愛憎の同形反復、そのうえさらに家族ネタだのなんだのと、とにかく密度が高いですからねー。


>本質的には相反するものでもないんですよね
対立点がうやむやになったあたりで、そろそろ切り上げ時かもわからんですね。

投稿: hatikaduki | 2008.04.27 00:39

時期を逸した返信。

自分の考える時間をとって、冷静に返答できることがコメントの利点ですよね、とか自分を正当化してみる。すいません。

>ひとつ火の粉の雪の中(タイトル間違えてた)
あれは、秋田禎信のリリカルな絶望を描いているという点で、非常に興味深い作品だと思いますよ。ミクロな部分(人間的な葛藤)を全部取っ払って、”堕ちた女神”と”神を名乗るもの”と”神殺し”という神話スケールのみに視点を置いたあたり尖がりすぎかと。さすが秋田禎信17歳。売ることなんて考えてませんね。

ある意味、オーフェンで”女神”と”魔王”と”ドラゴン種族”が主人公になった話だと個人的には捉えています。

(そこに一般的な人間の視点を持ち込んだオーフェンは、より高い次元を目指して作られているんだな…)

>対立点がうやむやになったあたりで、そろそろ切り上げ時かもわからんですね

なんか上手くhatikadukiさんの論点と噛み合わなくて申し訳ない。

ご面倒でなければ、またコメント(&ツッコミ)してくださると嬉しいです。

投稿: 吉兆 | 2008.05.14 10:50

僕こそ、一方的にご迷惑をかけ続けるような形になってしまって申し訳ないです。
どうもながながとお邪魔いたしました。楽しかったです。ありがとうございました。

投稿: hatikaduki | 2008.05.16 21:45

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