« 『ドラゴンキラー売ります』読了 | トップページ | 年末だというのに相変わらず本ばかり買っている »

2007.12.30

『アカルイミライ』を観た

5171tsbp4yl
アカルイミライ』(監督:黒沢清)をDVDをレンタルして観た。

年末の部屋の片付けをしたのだけど、どういうわけか片付ける気力がどうしても継続できなかったので、気分転換のつもりで観てみたのだが、開始10分ぐらいで画面に釘付けになった。当然片付けはまったく進んでいない。困ったことだ。

この作品には、いわゆる『物語』と呼べるものは何一つ無い。起伏も無ければ山場ないし、最後のクラゲの群れのシーンがクライマックスと言えなくも無いが、そのクライマックスも藤竜也(どうでもいいが、僕は映画だと役名をどうしても覚えられない。役者でしか覚えられない)にとってのもので、オダギリジョーにとってはすでに終わってしまったことを繰り返しているに過ぎない。オダギリジョーにとってのクライマックスは、実はその直前の藤竜也による”許し”ですでに終わってしまっている。こんなところにも、この作品のテーマである人と人の分かりあえなさ、理解の難しさが現れているのだと思う。結局、人生にはそんなわかり易い(他者と共有出来る)試練も、克服もなく、すべては個人的な体験でしかない。ただ、この作品は、その絶望を描きながら、それを否定するものではない。笑みを浮かべながら静かに絶望していた浅野忠信が、それでもなおオダギリジョーを気にかけ、最後には背中を押したように、また息子を理解できず上っ面の会話しか出来なかったこと藤竜也が、自分の現実の存在をオダギリジョーに対して叩きつけるシーンに、僕は単に分かりあえないだけではない、そう(我ながら気恥ずかしいことなのだが)”愛”と呼ぶべきものがそこにはあるように思うのだった。ただし、この作品の中で愛は何かを救うわけではない。世界はなにも変わるわけではない。屋根の上に立ってみても、多くの家(他者)に囲まれたそこには、どこまで行っても何もない閉塞そのものだ。ただ、その光景からは「もしかしたら」と言う希望がある。この家々の向こう側には何かが存在しているような。川の向こうには、海の向こうには、なにか明るいものがあるのではないか。生きることとは、何も見えない目隠しをされたような閉塞の中で、それでも何かを信じ、期待していくことが必要なのではないか、と僕には思えるのだった。

|

« 『ドラゴンキラー売ります』読了 | トップページ | 年末だというのに相変わらず本ばかり買っている »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29313/17524576

この記事へのトラックバック一覧です: 『アカルイミライ』を観た:

« 『ドラゴンキラー売ります』読了 | トップページ | 年末だというのに相変わらず本ばかり買っている »