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2007.12.23

『村田エフェンディ滞土録』読了

51xuubdayl
村田エフェンディ滞土録』(梨木香歩/角川文庫)読了。

1899年、土耳古(トルコ)を舞台に、考古学研究のためにイスタンブールへ留学してきた村田が異なる文化、異なる習俗を持った人たちの交流を鮮やかに描いている。梨木果歩特有の幻想のこだわりも見所の一つだけど、やはりこれは、イスタンブールと言うさまざまな文化が混在する国で、主人公の村田が異文化に触れていくというのが主眼だと思う。梨木果歩のとっては異文化の交流は”人”との交流そのものであって、さまざまな事情を(そして日本人からしてみると異質な)しがらみを抱えた人々の姿を見せている。もっとも、その交流自体が村田に何かを与えたかと言うと、そんなことはもちろん”無い”。異文化に触れることそのものには何も意味はないのだ。意味があるとすれば、そこには自分とは”違う”人間がそこにいるのだということ、自分とはまったく異なる”歴史”をかかえた世界があるのだということを”知る”こと。それだけが『異文化交流』において受け入れることが出来る(もしかしたら唯一の)ものなのだ。日本人である村田にとって、イギリス人の未亡人が抱えた哀しみも分からない、トルコ人の召使の屈託も遠い、ドイツ人、ギリシア人の考え方だって完全に理解できるものではない。だが、それは悲しむべきものではない。なぜなら、彼らは、同じ下宿で寝泊りをしていた彼らは、その交わした言葉を積み重ねていった分だけ、確かに”友”であったのだ。少なくともその瞬間だけは、あらゆる差異を越えて”友”であった。たとえそれが歴史における一瞬の交差であったとしても。異なる国の言葉を話し、異なる神を信仰し、異なる価値観を含有し、異なる歴史を背景に持つ。それでも同じ世界に生きている。それは違い受け入れ、許容していくことだ。ギリシア人は古い言葉を引用してこう言う。「私は人間だ。およそ人間に関わることで私に無縁な事は一つもない」。人間であること。共有するものはそれだけでいいのだ。別れ、二度と会うことはないであろう友に対して、村田はただ共有した日々を背負って、それでも生きていくことになるのだ。

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