« 自分の立ち位置を見直す意味で | トップページ | 現在、バイオリズムが下降線を描きつつも谷の底が見えてきません »

2007.01.21

『きつねのはなし』読了

027260580000
きつねのはなし』(森見登美彦/新潮社)読了。

ずいぶん前に読み終わっていたのだが、いろいろあって感想を書いていなかった。『夜は短し歩けよ乙女』の感想も早く書きたいので先に書く。

森見登見彦と言えば、知的かつ格調高い文体と、あまりにも駄目さ極まる大学生男子の日常と非日常を幻想的かつ卑俗に描くことが出来る稀有なる作家であるが、この短編集は俗的な要素をとことんまで省き、一個の幻想譚を追求しており、作者の新しい側面をのぞかせている。ま、この作者はこのくらいの作品は簡単に書けて当然なんだがな!(何故貴様が威張る)

以下各話感想。

「きつねのはなし」
表題作。京都の闇の中でひっそりとうごめく人外の影に巻き込まれた主人公の悪夢を描く。実にいやらしく、人の悪意、弱さをこれでもかと描く。深い闇の中にうずくまる狐の仮面。過去の罪、未来の罰。恐怖と同時に魔的な磁力めいた美しささえ垣間見えるところが素晴らしい。

「果実の中の龍」
妄想の中に生きる男の姿は、単純に現実逃避を示すのではなく、それは物語ると言う行為そのものに付きまとう業であるようにも思える。人は物語るとき、紛れも無くその人生を生きて死ぬ。それはすべて絵空事であろうとも、絵空事を生きたことにはかわりが無い。嘘と本当、それは絶対的な断絶ではなく、人の内的な現実の側面でしかない。何が現実で何が妄想なのか、そんなことはどうでも良いのだ。彼が一つの世界を作ったことには違いは無いのだから。

「魔」
魔が差すと言う。人の心の間隙を縫って、悪意がうっそりと聳え立つ。悪意は人が生み出し、人に嫌悪され、人に捨てられる。捨てられた悪意は魔となり人々を脅かす。それは巡り回る業であり、悪意を打ち倒しても魔は消えない。ことばの隅々に世界に対する違和が仄見えるところに感嘆した。

「水神」
祖父の葬式後、故人の思い出に思いを馳せる人々に降りかかる怪異。それは人々とともにあったはずのあやかしが、人々に拒否されていった最後の時代の名残と言えよう。滅んでいくものたちの哀切と、怪異に翻弄される人間の対比が見事だった。また、各短編でわずかずつの連なりが、またしても冒頭に再帰していく自己完結的な部分に、終わりの無いウロボロス的な厭わしさを感じた。ここに落とし込む作者は相当にひねくれているなあ、と変なところでも感心してしまうのだった。

|

« 自分の立ち位置を見直す意味で | トップページ | 現在、バイオリズムが下降線を描きつつも谷の底が見えてきません »

コメント

はじめまして。
私もこの作品を読みました。

作者がひねくれている、という感想を読んで、「あ~そうかも(苦笑)」と思いました。
「夜は短し歩けよ乙女」「太陽の塔」と読んできたんですが、単純なようでいて、端々がクルクルッとカールしてるような、実は気付かないだけで全体がとぐろを巻いているような、そんなイメージがあるかも。

投稿: chiro | 2007.08.19 08:28

はじめましてこんにちは。

森見登見彦という作家は、物語を捻って捻ってさらに捻って、結果的にわかりやすくなっているだけで、実のところすごく分かり難い作家だと思うんですよね。「太陽の塔」なんて、ちょっとファンタジックな表現をしているけど、基本的に大学生の妄想と日常を迂遠な表現で語ると言うすごく分かり難いことをしているわけですし。

その迂遠な表現が独特のユーモアに繋がっているというか、文章を読んでいるだけで僕は笑えてしまうのですが、さすがに少数派かもしれません。

投稿: 吉兆 | 2007.08.21 23:05

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29313/12743306

この記事へのトラックバック一覧です: 『きつねのはなし』読了:

« 自分の立ち位置を見直す意味で | トップページ | 現在、バイオリズムが下降線を描きつつも谷の底が見えてきません »