« 『まだ見ぬ冬の悲しみも』読了 | トップページ | 『お留守バンシー(2)』読了 »

2006.05.21

日日日作品全般に関する納得のいかなさについて-『蟲と眼球とチョコレートパフェ』より

蟲と眼球とチョコレートパフェ』においてもっとも悲惨で不幸で救いの無いキャラクターは誰だろうか、と考えてみた。心を失ったうさりん閣下だろうか?それとも彼女を愚直に守り続ける賢木愚竜だろうか?あるいは救いの無い望みを抱えた眼球抉子だろうか。

僕が思うにそのどれでもないと思う。では誰がもっとも不幸なのかというと、おそらくは蛇に憑かれる前の”貴御門御貴”のような気がする。何故、彼が不幸なのかというと、彼は一切の救いを持っていないからだ。勿論、無念の死を迎えた時点で救いなんて何一つ無いし、死んでしまった人間はどうしたって救われないんだけど、彼の場合は、本来の居場所も、自分が大切にしてきたものも、恋慕する相手さえも”蛇”に奪われてしまっている。そして、それだけではなく、”その不幸をあらゆる登場人物から無視”されているところが、彼の最大の悲劇(あるいは喜劇)があるのだ。彼はまた読者に対してさえも何一つフォローをしてもらえぬ、一切の人間的価値を否定されたキャラクターであるのだ。はっきり言って、作品内で彼ほどさまざまなものに踏みつけにされている人はいないというのに、(おそらくは)読者の感情移入する先は蛇に憑かれた”御貴”であり、抉子となるようにこの物語は描かれている。

まあこれは今に始まった話じゃなくて、日日日作品においては、主人公たちがそれぞれに不幸を抱えながらも不条理に立ち向かう姿を描きながら、その一方で、主人公たち”以外”の存在に対する冷淡さ、無関心さがあるように感じるのだ。おそらく、僕が感じる違和感のようなものはここにあって、つまるところ”弱者”に対する無関心さにたいするものではないかと思う。踏みつけにされる人々にこそ感情移入をしてしまう自分は(ここでは”貴御門御貴”)、不快感を感じざるを得ない。

まあ、それが悪いと言っているわけじゃなくて、主人公たち以外とどうなろうとどうでも良いというのは僕には実は分からないでもないのだけど。実際、大切なものと言うのはそんなに多くない。家族とか、自分の周りの人とか。それを越えた範囲は”倫理”の問題と密接に関わってくる。その意味では、日日日作品は”倫理”を持たず、あくまでも個人的感情でのみ善悪を判断していると言えなくもないが、それは「きみとぼく」とか「セカイ系」とか(まあなんか良く分からんけど)は押しなべて”倫理”と”個人的価値観”が等価値になっているものが多いわけだから、別段日日日作品がおかしいと言うわけでも無い。しかし、今までの「きみとぼく」とか「セカイ系」の話に感じなかった不快感を日日日作品から受けたと言うのはなぜかと言えば、日日日が持っている”価値観”と、僕の持っている”価値観”に齟齬を来たしているということが出来る。”倫理”という社会的に共有出来るベースが無いため、個人的な価値観が作品を判断する上で重要になってくると言う事かもしれない。

それがどういう事なのかを一言で言うと…つまり「世代」が違うという事ですか。

(…ってなんだよその極当たり前の結論は!ここまで書いておいてそれかよ!ふざけんなオレ!バカ!!)

|

« 『まだ見ぬ冬の悲しみも』読了 | トップページ | 『お留守バンシー(2)』読了 »

コメント

 ほぼ同意見です。恐らく日日日氏は、作品全体において当事者的観点から執筆に行っているのだと思います。というかそれ以外の書き方=多重視点で自分の物語を俯瞰すること、が出来ないように見受けられます。
 このように考えたとき、(何しろたった一つの世界認識観、倫理観しか持ち合わせていないので)登場人物の価値観がそのまま作品中の倫理体系として適用されたりするというような、ある一定以上の読者には耐えられない展開が発生するのではないでしょうか。正直わたしはうそつきを読んだとき、日日日氏の描く「セカイ」のあまりの気持ち悪さに本を壁に向かって投げ捨ててしまいました。彼の作品はそのどれもが彼の脳内から外にでられきれてないように感じられます。
 日日日氏は本を出す毎にどんどん巧くなっているよう思います。ですが、それはストーリー展開に合わせたガジェットや魅力あるキャラ立てといった技術的な部分だけであって、物語に厚みを持たせる重要な要素である「核」と言えるような何かはむしろどんどん失われていっているのではないでしょうか(何しろ彼は未だにダヴィンチのインタビューで「プロットは作りません!書くときはいつもいきなりですから!」と豪語出来るほどに「少年」です)。今はエンターテイメント作品の執筆に従事している以上、それでも問題なく売れていくことは出来るでしょうが、この点を克服しなければ彼にとっての「それより先」はないと思います。
 ていうかぶっちゃけ彼は小説を書くにはまだ幼すぎる。
 

投稿: abc | 2006.06.10 23:09

なるほど、

>登場人物の価値観がそのまま作品中の倫理体系として適用されたりするというような

という部分には確かに日日日の気持ち悪く感じる部分そのものですね。その価値観を共有できないと、作品そのものを受け入れることが出来ない排他性が日日日作品には確かにある。多様な価値観(つまり倫理的葛藤)が日日日の今後のためには必要であるというのはまったく同意します。

ただ、日日日がまぎれもなく才能のある作家であり、また作劇技術としても非常に高度なものを持っているということは僕は疑っていません。

「うそつき」を読んだ時に感じるすさまじい不快感は、むしろ主人公の一人称の体裁をとることにより、あまりに痛々しい、痛々しすぎる青臭い人間性を赤裸々に描いた故であり、あそこまで痛々しく描けるというのは小説家としてはきわめて高い技量を持っている証であると思います(どちらかといえば私小説家的な技量ではありますけど)。

まあ今後の期待していきたいと思います。

投稿: 吉兆 | 2006.06.11 09:07

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29313/10013073

この記事へのトラックバック一覧です: 日日日作品全般に関する納得のいかなさについて-『蟲と眼球とチョコレートパフェ』より:

« 『まだ見ぬ冬の悲しみも』読了 | トップページ | 『お留守バンシー(2)』読了 »