永遠につづくものなんて無いけど、それを認められない気持ちは否定出来ない
『永遠のフローズンチョコレート』(扇智史/ファミ通文庫)読了。
これ最強。
これはつまり日常の話だ。不老不死の少女が登場して、殺人鬼の彼女がいて、それでいながらどこまでもただの日常の話でしかない。殺人者の少女はただ人を殺す。そこにはトラウマも無ければ動機も無い。殺した少女は恋人(それともただの他人?)の元へ向かう。セックスをする。学校へ行く。そしてまた殺す。殺人者の少女を前に少年は受け入れる。ただ、何も無かったかのように。何もかもを諦めながら。殺人者の少女は死なない少女と出会う。殺せない少女に出会う。二人は殺しあう。友達になる。少年と出会う。友達になる。三角関係の成立。当たり前の。そして少年は悩む。自分の現在に悩む。それはごく当たり前の悩み。側に寄り添う殺人者の少女。それを眺める死なない少女。死なない事に憧れる?それはあたかもフィクションのように。いくつも挿入されるフィクションの”かたち”。繰り返される引用。そこにはある種の真実がある。嘘っぱちの真実がある。
それはまるで日常のように。いつかは融けるフローズンチョコレート。永遠にあれかしと願いつつ、決して永遠とはなりえない日常。殺人者の少女は反抗し、”永遠”にナイフを突き立てる。日常に打ちのめされる少年。フィクションを求めて、当たり前の日常を生きる。永遠を体現した少女。彼女にとっては日常の永遠は比喩ではなくリアルな絶望。だからすべてを受け入れる。
これはそういう物語。永遠と日常を巡った一時の交錯があった。それはただの日常であり、いつかは融けおちるチョコレート。甘くも苦い、フローズンチョコレート。
そう言う話だと思う。
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