『最果てのイマ』その3
相変わらず『最果てのイマ』(XESE)をやっていて、実を言うと既にクリアしたんだけど、そちらの感想については後回し。一応結論としては大変面白かったんだけど、色々思うところがあって、まとまるまで置いておくことにする。書かない可能性が高いが。
以下、とりあえずメモ書き。全然まとまってない上にネタバレなんで、ゲームをクリアした人、あるいは金輪際このゲームをやらないと言う人、人生を無駄にすることを恐れない人以外は読まないで下さい。
・このゲームをやっていて思う事は、非常に閉じた領域の話をしているな、と言う事だ。主人公たちの領域=「聖域」は、主人公達の関係だけに終始し、外へ広がることは決してない。主人公も積極的に停滞を望み、永遠なる現状維持を目指す事を最終的な目的としている。
しかし、僕はそれを批判するつもりはまったくない。と言うのは、この物語テーマの前提となるものとして、「人が自らの幸福を追求するのならば、それは絶対なる”個”の中にしかない。それは他者と共有することは不可能である」と言うものがあるからだ(少なくとも僕はそう思った)。この思想を、シナリオライターが肯定しているわけではない。むしろ、どうあっても”個”としてしか生きられない人間が、それでもなお共有する「何か」を持った”他者”を得ることが出来るのかという問い、つまり、決して他者とは共有出来ないまでに細分化された”個”人として存在する現代において、それでも”他”者を得たいという願いがテーマとなっているように思った(もっともシナリオライターがどこまでこのテーマを突き詰めているのかと言うところまでは分からないけれども)。”個”としての現実があり、それを”他”にまで持っていこうという理想がひしめき合って結果生まれたのが、この作品における”聖域”なのであろうと思う。あれは、主人公の理想と現実との妥協の結果なのであろう。
そうなるとさらに救われないのが、その主人公の必死の願いは、各ヒロインのシナリオを進めていくうちに、脆くも瓦解していくと言うところだろう。歪でつぎはぎだらけの”聖域”は、無常な現実の進入を容易く許し、主人公の努力をすべて無化していく。しかも、まるでループするかのように、同じ場面を何度も何度も見せ付けられる事になるのだ。ところが、不思議な事に、この物語においては決定的な場面に直面する前に途切れてしまう。まるですべての崩壊を拒むかのように、すべてを閉ざしてしまう。これは物語の最後に明かされるわけだけど、それでもなにか釈然としない。さて、どう解釈したものか…。
・『日常編』をクリアすると、突然『戦争編』が始まる。その唐突さは、もしかすると『日常編』と『戦争編』のテーマのギャップを、シナリオライターが完全に埋めることが出来なかったためではないかと思った。つまり、『日常編』においては、”聖域”と呼ばれる狭い世界の繋がりを得ようという試みであったのに対し、『戦争編』では人と人は繋がり合うことが出来るのか、と言うテーマレベルの桁が違ってしまっている事と無関係ではないのではないか。無論、どっちが高尚な問題か、なんてことを言うつもりは全然無くて、『日常編』のテーマですらまったく未解決のままだと言うのに、それを全人類規模まで発展させたテーマにいきなり飛躍させてしまった事の影響が出ているように思った。だが、これは『最果てのイマ』という作品を考えてみると仕方のない事であったのかもしれないと思う。と言うのは、主人公が、ごく狭い世界での”聖域”に拘り続け、人類や世界のことなんて知ったこっちゃないと言う態度をとり続けていたところが、自分が何のために存在するのかと言う意味を掴み取る過程、その決断をする事が出来たのは、それまで拘り続けた”聖域”での生活があったからこそ生み出されるものではなかったか、と思った。僕が凄いと思ったのは(と言うか感動したところは)それらの決断や”聖域”での生活の可否については結論をださず、ただそれらをあるがままに描いているところだ。このあたり、僕は厳密な判断は出来ていないのだけど(やや私情が入っている)。
・うーん、自分でも良く分からないことを難しげにハッタリかまして書くのって気持ちいいなあ。
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