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2005.04.16

『我語りて世界あり』読了

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我語りて世界あり』(神林長平/ハヤカワ文庫JA)を読み終わりました。新装版の表紙画像が無いのはなんでだ。ぬー。

オーバーカムと呼ばれる人間の無意識にも似た共感空間を作り出す存在によって構築された世界。そこでは人間には個性と呼ばれるものは無く、すべての経験は同一化されている。自らの名前すらもたない人間達の中で、自らに名前を付けた3人の子供達だけが個性を維持し、過去の記録から個性をもった人々の人生を追体験をする遊びに興じていた。<わたし>は、子供達を見守りながら自らの存在を捜し求めて語り続ける…。

ありえないぐらいに面白い。
肉体を持たない純粋知性である<わたし>を語り手にした連作短編集。物語は語り手と、その語り手が見守る3人の子供達を中心に展開していく。オーバーカムの一部でありながら独立した自我を持ち始めた<わたし>は、自分の生存のための戦いを開始し始める。その戦いは明確な敵が存在するものではなく、個性をと言うものを認めない世界そのものである。<わたし>が必死に自らの実存を確かなものにしようとする足掻きが今回のそれぞれの物語と言える。

神林長平は、どちらかと言えば「ドラマ性」よりも「理論」先行タイプの作家だと思うのだけど、この作品は作者の理論を様々なアプローチから論じているものと言えなくも無い。それは、現実を規定する力「言葉」をめぐる問いかけであり、人間の持つ個性と言うものは所詮は言葉によって枠をはめられた状態であるには過ぎないと言う事などだと思う。人間か個性と言うものを得るためには、自らを規定する言葉「名前」を得る必要があり、3人の子供達は自らを名付けた故に個性を獲得した。そして<わたし>もまた自らの「名前」を求め続けるが、しかし、その試みは失敗し続ける。

この世の出来事のすべてを知り尽くす神(=悪魔)である<わたし>が、決して得られぬもの。それは自らに対する呼びかけであり、自分が存在する意味についての解答である。最後に彼が得た答えはこの物語の肝であるので詳しくは言えないのだけど、神林長平を読みなれている人にはある程度想像がつくかもしれない。まさしく<わたし>が語るからこそ世界は規定されていると言えるだろうか。

人間の「個性」というものの曖昧さ、「言葉」の持つ現実を規定する力、現実と幻想の境界線など、相変わらず冒頭から最後までどこまで言っても神林長平らしい作品で、設定から物語の構造まで難解極まりないのだけど、繰り返し繰り返し語られる「言葉」と「自己」を巡る物語には、どこかリリカルとさえ言える物悲しさがあるように思えた。自分は「意識をもった生き物」だと訴え続ける<わたし>の姿には、求め焦がれながら手に入らぬものへの切望が、淡々とした描写の中に織り込まれているところがとても良い。それゆえに最後に場面での<わたし>が自らの正体の、仮の姿が現れる場面での感動的なものになっていると感じた。

神林長平を読みなれている人なら、<わたし>の正体にもすぐに気がつくのかも知れないな。僕は神林長平を読むのが久しぶりな事もあって、気が付いたのは中盤を過ぎた頃になってから。遅すぎ。それでもファンか(すいません)。

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