『死者の奢り・飼育』読了
『死者の奢り・飼育』(大江健三郎/新潮文庫)を読了した。やっべえ、すげえ面白い。おかしいな、高校生の時は読むのがつらくてつらくてどうしようも無かったはずなんだが…。読解能力が向上した、なんて事はありえないから(昔の方が読解力はあったと思う)、やっぱり考え方の変化のせいかなあ。
それにしても20才を過ぎたばかりでこんな作品を書けるなんて、確かに大江健三郎ってすごいかもしれない。少なくとも、乙一が天才的であるのと同レベルで天才的と呼んでもよいやもしれん(その比喩はどうかって?だって、僕の中では大江健三郎と冲方丁と乙一と村上春樹は同格の存在ですからしょうがないんです。)
とりあえず感想でも。
『死者の奢り』
これ主人公の感覚がもの凄く良くわかるんですよ。勿論、僕は昭和三十年代に生きていないので主人公の気持ちが分かるかといわれればきっと誤読なんだろうとは思うけど、しかし、現代の感覚に照らし合わせながら読んでみて共通する感覚を想起できるというのは、大江健三郎の時代を超えた普遍性を表しているのではあるまいか。戯言だけどね。まあいいや。
「僕」はバイトで大学の医学部にある死体処理室にやってくるのだけど、この死体処理室というのは、現実=生の世界と対比された閉ざされた異世界=死を表しているのだろう。主人公は、現実から離れた死を嫌悪しながら誘惑される。それは現実世界の不条理、理不尽からの逃避なのだろうが、死=ファンタジーを求める精神というのは決しておかしなことではないだろう。事実、「僕」は物語が進むに連れて死体に対する親近感を深めていくのだけど、しかし、その異世界は、死体搬送にやって来た運搬員=侵入者によって現実の流入を許し、幻想は破壊されるという過程を表しているように感じた。幻想なるのものの儚さと、現実に生きる事の困難さが描かれていて、僕はこの作品はとても好きだ。
『他人の足』
これは脊椎カリエスによって立つ事もかなわぬ少年達の、閉塞した、それでいて完全に自足した楽園が、外からの来訪者を向かえ入れたことで「外部」というものの存在を知ることによって生じる絶望を描いている。「外部」という存在が無ければ、人は自らが閉じ込められた虜囚であることも知らず無知なる幸福を享受できるのだ。なんて事を思った。
主人公の青年は、他の仲間よりも年をとっているため絶望の深さを知っているが故に学生を信じない。しかし、それでも希望に心を惹かれてしまう様は物悲しい。
『飼育』
ここに出てくる黒人兵士というのは、少年にとっての非日常なのだろうと思う。村という、閉塞した世界の中で、そしてそのことに何の疑問にも思っていない少年が、初めて感じた外部の存在。それまで決して意識した事もない外の世界からの来訪者を見て、少年は好奇心をあらわにする。村で黒人兵士を「飼育」する事で、言葉が通じないながらもつかの間の幸福の時間を過ごす。しかし、その時間は長くは続かず、外の世界の論理(ここでは戦争)が小さな世界(村)は崩壊する。目の前で黒人兵士の「死と恐怖」目の当たりにした少年には、すでに「楽園」を失っているのだろう。「死」を知った時、少年は少年ではいられなくなり、大人となる…話で本当に良いのか?
しかし、最後まで読んでからこの作品を考えてみるとまた違った印象があるな。何しろ「アメリカ人を飼育」するんだもんな…。大江健三郎のアメリカへの意識が伺える…というのは短絡的かな。
『人間の羊』
これは「被害者」と「傍観者」の物語。「被害者」にたいして、「傍観者」というのは常に残酷だ。その残酷さは、常に正論、正義感から発しているだけにたちが悪い。「傍観者」の醜悪さ、いやらしさがこれでもかと描写されており、正直見るに耐えない。自分が正義を執行しようとする人間は、決して痛みを感じる人間の下まで下りてこない。そこにあるのは歪んだ優越感に満ち溢れた尊大な正義感だけなのだ。
『不意のおし』
何故か字が出ない。差別用語だからか?しかし、文字だけ規制すればいいっていう感じが気に入らない。まあいいけど(いいのか)。
それはともかく、この作品は良くわからない。正直に言って何が言いたいのやらさっぱりです。分かったのは、大江健三郎は、アメリカ人に対して複雑な感情を抱いているんだなあって事かな。外国人(外部)とのコミュニケーションの断絶した小世界を描いている…んだろうか?うーむ。
『戦いの今日』
ここまで読んできて、どうやら大江健三郎は(あくまでも作品内において)アメリカに対する複雑な愛憎があるらしい戸ということが分かった。まあ、戦後十数年しか経っていない時代背景考えれば当然の事か。またこの作品にはアメリカへの劣等感と嫌悪と、どこか生ぬるい親しみを感じさせる。というか、それしかない話ではあるな…。これまた読みやすいのであるが、どうにもこうにも作品としては語りにくいなあ…。
そうそう、主人公の『かれ』が、単なる刺激を求めて行った行為が、予想もつかない非日常を招きよせてしまうといった展開は、設定さえ変えればまるでライトノベルのみたいだと思ったのは内緒だ。大江健三郎をライトノベルとして翻案すると面白そうな気がするな、と思ったが考えてみたらそれは大塚英志が今までやってきた事だということに気が付いた。ひょっとして大江健三郎がこんなに読みやすくなったのって、大塚英志の作品を読みまくったせいで慣れたって事なのか…あ、ありうる…。
それはさておくとしても、大江健三郎のテーマが、現代の感覚と照らし合わせても全然古びていないというのはすごいことだと思います。この本に共通するのは「閉塞感」ですね。それも無知と幸福が一体になった閉塞と、いつかは失われるべき楽園というモチーフがあるように感じられる。閉塞感を伴った楽園の儚さと、暴力的とさえ言える崩壊感が大変素晴らしかった。何で今まで読んでなかったんだ…僕の好みど真ん中じゃねーか…。
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コメント
通りすがりですが、「唖」は『あ』で変換すると出てきます
投稿: 4様 | 2009.12.15 17:16
ありがとうございます。本当に出ますね。
投稿: 吉兆 | 2009.12.16 01:20
puto chino
投稿: | 2015.09.15 01:20