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2005.02.01

「羊をめぐる冒険(上)(下)」、読了

羊をめぐる冒険(上)」「同(下)」、を読了しました。すごく懐かしい気持ちになった。

この作品は、実は高校生の時に読んだことがありますので、正確には再読です。とは言え、内容は8割方忘れてました。何を読んでいた、高校の時の自分…。まあ、読み進めていくうちに段々記憶のある場面が出てきて、さらに未だに覚えているフレーズが出て来たりして、ああ自分の中には村上春樹が根を下ろしている部分があるのだなあ、なんて事を思ったりした。

さて、今回この三部作を通読してみたところ、「羊をめぐる冒険」だけ作品のカラーがまったく違う事に驚かされた。この作品は『探し求める物語』ですね。これ以前ものが『喪失し続ける物語』であったものが、ついには無くす物さえ無くなってしまい、新たに探し始めるという話なのかな、と思った。

しかし、この物語が救われない事は、そのようにして何か価値あるものを探し出そうとしても、それすらも何者かによって与えられた価値観であり、そしてそれによって得たものは、本人の意思に寄らず必ず失われていく事が宿命付けられている点ではないかと思う。結局、<僕>は捜し求めたものを見つける事が出来たのか、出来なかったのか。どちらにせよ、決定的な、そして最終的な物を失ったってしまった事は間違いない。そう考えると、やはりこの物語もまた『喪失し続ける物語』であったのかと思う。否、むしろ『喪失した物語』となったのか。そこでは、すでに失われてしまった事は過去の事となっている。では失われたものがなんだったのかといえば、それは青春であった、というのは我ながらセンチメンタルすぎて気恥ずかしい。

こんな事を感じるようになったのは、自分も20代半ばを過ぎて年をとってしまった所為なのかなとも思った。

全然、話は違うのだが、この三部作において『女性』の存在の曖昧性が気にかかった。<僕>にも<鼠>にも多くの女性が関わるのだが、しかし、どこまで言っても透明な、あるいは象徴的な存在に留まっている。この時点での村上春樹にとっては、女性というものは地に足をついた存在ではなく、どこか偶像的な印象がある。しかし、「羊をめぐる冒険」では、初めて顔の見える女性が<僕>の前に姿をあらわし、しかも、<僕>を導き教える重要な役目を背負っているのだが、やっぱり物語の終盤で唐突にその存在感を消失し、<僕>の前から姿を消してしまう。このあたり、女性に依存しているわりに、女性の存在を認めていないような感じがしてどうも落ち着かなかった。別にフェミニズムの論調で言葉を発するつもりはないが、奇妙にバランスを欠いている印象がした。

なんとなく気になったので、他の村上春樹の本も再読してみようかと思う。

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コメント

去年の秋、村上春樹の世界観を映像化するお仕事を頂いて、ブログ上で村上春樹を探す旅に出る事になりました。いつの間にか逸脱して、最近では自分の生活を書き綴る毎日です。もうそろそろ、その仕事の結論を出す時期なのですが、「喪失感」と言う問題にケリがつきません。最終的には勝手に解釈して創るんだと思いますが、イタリアの翻訳家のアミトラーノさんが言っていた、世界中で喪失感とは青春だ見たいな言葉を思い出しました。

投稿: keiki | 2005.02.02 11:25

実の所、僕の青春期(青春などというものがあればですが)は80年代にはなく、90年代に属する世代なのですが、何故か村上春樹の世界には惹かれてしまうのは自分でも不思議な気がします。

そこにはやはり「喪失感」というキーワードが存在するのだと思いますが、やはり何かを失ってしまったという感触は普遍的なものなのだろう、と感じます。そう言うところが村上春樹が常に読まれ続けている原因なんだろうと思いますね。

ところで、「喪失感」とは何かという事を自分なりに考えると、すでに過ぎ去ってしまった過去への未練なのではないかと思う事があります。すでに失われたものに対する、そして失われてしまったが故にあやふやで漠然とした何かに対する未練というか。未来に対する不安にも似ているような気もしますが…たぶん違うような。

たった今思いついただけの妄想です。的外れですいません。

投稿: 吉兆 | 2005.02.02 21:16

そうなると、いよいよ持って「ダンス・ダンス・ダンス」を読まないといけませんね。
この話では、一応〈僕〉は、現実世界の中に居続けることができています。ただ、それまでに失って来たものとの決着がついていないので、またもや探し物の旅に出ることになります。例によって、人死にが出たり、行きずりの女性と寝たり、ロリな女の子の世話をする羽目になったり、まぁいろいろですね。

しかし、この男は私から見ると、ちっとも駄目人間じゃないのですよ。仕事を投げても旅に出ないといけないのに、そのとき抱えていた仕事のけりをつけてから出ていたり、カード決済ができるだけの収入や貯蓄があったり運転免許書は当然持っていたり・・・・
あ、いや、今度は自分の駄目さ加減に嫌気が差してきたですよ・・・

ではでは

投稿: きつねのるーと | 2005.02.03 20:41

まあ、そう言う意味では駄目ではないのかもしれません。少なくとも、仕事上では有能だし、判断力も確かですね。

ただ、この主人公は他人や社会に対して、どこか線を引いて接しているように感じます。戦を引くという言い方が正しくなければ、醒めた目で周囲を見ている。いや、勿論本人にはそんなつもりはないし、きちんと社会的な生活は営んでいるんですけどね。

ただ、他人から距離を置いたスタンスが、自分の身の置き所のなさに繋がって、それが「喪失感」という言葉でも括られるものなんじゃないか、とか考えてみたんですが。

うーむ、やっぱり違うな。

投稿: 吉兆 | 2005.02.03 22:56

うん、そう言う感覚で捕らえている方がほとんどかと思いますよね。自分の身の置き所に違和感を感じ続ける<僕>の足掻きのストーリーって捕らえ方でよいですね。

それから、あの当時の時代背景を考えるとあれでも、社会から隔離されている感じが濃厚にするのですね。80年代はバブルとはいえ、自由業が暮らしにくい世の中でしたから。今現在のように、フリーターがごろごろしている時代とは訳が違いますから・・・。
ですから、今の感覚ではまぁまともな部類に入るにしても当時としては異端のドロップアウトの社会人って、分類に入るですよね。

ただ、この世界観を今風に解釈してただの女性を美少女に置き換えると、「Key」の世界観にうまく適合するような、しないような気が・・・。
ん?でもかなり違うか・・・・

投稿: きつねのるーと | 2005.02.04 16:48

<僕>って今から見てもまともですかねえ…。外見的にはどうあれ、絶対に社会的な人間ではないと思うんですが。どちらかというと、浮世離れした世界への逃避志向が強いと思います。

無論、<僕>はどんな冒険をくぐり抜けたところで、一応は現実に帰還してはいる。しかし、それでもなおかつてあった幻想への憧憬を捨てられていないような気がします。

まあ、その点においては<鼠>の方が極端なわけですが。言うなれば<鼠>は<僕>がある意味ではなりえた可能性であった言えなくもないですね。
ただ、僕から見ると<鼠>の感覚と言うのは実は凄く良くわかります。<僕>よりも<鼠>の弱さに強く共感を覚えます。実は<鼠>の感覚と言うのは現代の「引きこもり」の感覚に似ているんじゃないかと思ったりしました自分がひきこもり的な性質を強く持っている所為で、そう感じるのかもしれませんけどね。

投稿: 吉兆 | 2005.02.04 23:32

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